10月は72分でした。
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【2014/10/31 23:41】 | Yoga
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2009年 東工大 (復習) 「身近に手に入る材料で自転車を作ることにより、発展途上国の経済を活性化させる試み」

【2014/10/31 20:31】 | リーディング
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とある掲示板で「絶対に彼氏・夫にしたくない男性のタイプ」というのがあった(笑)
面白そうなので見てみた(笑)

とある意見に「身長170センチ未満の男性。絶対に嫌!男を感じない」というものがあり、本当に多くの賛同を得ていた。
「背が低い男性は嫌ですよね!」
「160センチ台の男性なんて・・・・」


また別の意見に「反対意見があるのを覚悟で書きます。日大もしくは地方国立未満の学歴の男性。これ未満の学歴の人とはちょっとお付き合いは考えられない」というのがあった。
そしてこの意見に対しては非難ごうごう!
「学歴で人を判断するなんて」
「大学に行ってなくても立派な人はたくさんいる!」
「いい大学に行っていても仕事ができない人なんて山のようにいる」
「高卒でも立派な人は多い。あなた何言ってるの?失礼な!」
「なんて視野の狭い意見!」
「学歴なんて社会に出てしまえば無関係。実力のみ」


調べてみると男性の身長平均は170センチくらいなんですね。
100人いたら、50人は身長170センチ以上、ということですね。

さらに二つ目に紹介した意見。
地方国立は京大や阪大などトップレベルのものから、私立でおおざっぱに換算すると日大くらいのものまであります。
日大は偏差値55ですから、真ん中よりやや上、といったところ。
なお、日本の進学率はおよそ半分です。
日大や地方国立ぎりぎりに入ろうとするなら、100人中、15人くらいに入っていないと駄目、ということです。

あの掲示板で皆さんが反対意見を書いたのは、この差だろうか?

いや~それだけじゃ無い気がする。
そもそも「身長」こそ、どうしようもないものでしょ?身長こそ「立派な人」であるかどうか本当に無関係。
努力でどうにもなるもんじゃないし。
でも、こちらの意見には女性たち本当に寛容でした。

「学歴」って言ってはいけないこと、表だっては知らん顔してなくてはならないもの、なんですね。
でも、それって「地雷」みたい。深く危険に潜んでいる感じ。
この意見書いた人も「反対意見覚悟で書きます」と言ってるわけだから・・・
おずおず書いて、やっぱり「炎上」したというわけ。

すごく面白い現象だと思いました。
「頑張ればみんな100点が取れる」
「努力すればみんな同じになれるはず」
「結果は同じであるはずだ」

でも、実際はそうじゃないはず・・・

努力でどうにもならないはずの「身長」に対しては皆、寛容なのに、学歴になるとヒステリックに炎上する。
身長と違って、文化資本だとか格差社会とか色々な問題が絡んでいるからでしょうね。
面白い現象だと思いました。

学歴システムのメカニズムをもっと調べてみたいと思います。

【2014/10/31 15:46】 | 思いついたことなど
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マキャヴェリ『君主論』

普通の会話でも出てくるMachiavellism (目的の為には手段を選ばない残酷、かつ冷静な人物)の元になった人物。(CSI でニックの台詞にも出てきた時にはちょっとびっくり笑)
学部時代に政治思想論の授業で習ってからずっと興味がありましたので、今回読んでみました。
★★

・ルネサンス期のイタリアの状況の中で、いかにして「生存」していくかに関する政治思想が展開していったのか。

・徳の概念が、現実主義に再定義されていった。ソクラテス、アリストテレスは「善く生きるとは」をテーマにしたが、生きること「すら」できない時代には、どうすればいいのか、という答えにはならない。

・マキャベリ以前はキリスト教と政治が結びついて発展していた。マキャベリは、政治と宗教を分けた初めての人物。

・政治には政治の徳がある。マキャベリ以前は「人間は獣ではない」ということが大前提になっていた。マキャベリは、人間でありつつも、君主は時にライオンのように獰猛で、時に狐のように狡猾であるべしとした。

・気前良さよりケチであること。慈悲深さより残酷さ。愛されるより恐れられることが大事。
「リーダーたるもの、人に慕われるより、恐れられることを選べ」

・残酷な君主チェーザレに対する賞賛と批判
賞賛「ロマーニャの政治」・失敗「ユリウス2世を教皇に選んだこと」
<賞賛について>
「チェーザレがロマーニャ地方を手に入れてみると、長年にわたって無能な支配者たちの統治下にあったため-彼らは臣民を正しく治めるどころか、むしろ略奪してしまい、市民の団結を図るどころか、分裂の種をまいた-ありとあらゆる無法がまかり通っていたので、ここを平和な土地にし、権力の腕に服させるには、良い統治を敷くことが必要と判断した。
そこで、レッミロ・デ・オルコ卿という残忍な手腕家をこの地へ派遣して全権をゆだねた。」
オルコ卿は、恐怖政治でロマーニャ地方を収めたのですが、人民はその結果、チェーザレを憎むようになってしまった。ここで怖いのは腹心の部下だったはずのオルコ卿をあっさり二つに切断して血だらけの2片(!!)の死体と血まみれの刃物を広場に置いた。人民はこれによって「チェーザレ様は怖いけれども立派な方」とチェーザレを崇めるようになった。マキャベリはこの一件により、「倫理より政治が大事」「目的のためには手段を選ばず」「政治は人の生き方とは全く異なる」などのことを学んだのだった。
(注・余談ですが、チェーザレは大変な美男子だったそうです。イケメンの残酷冷静、政治の手腕家なんてすごく絵になります!超美しい俳優さんでハリウッドで映画化にならないかしら(笑))

<失敗について>
ユリウス2世とチェーザレの父は前の教皇選挙で激しく教皇位を争ったライバル同士。選挙では父に負けた恨み(マキャベリの父は、ユリウス2世の命までも脅かしていた)もあるだろうが、金で過去の遺恨を洗い流せるなら安いものと考えた。
マキャベリはこの一件を振り返りこう述べる。「新しい恩義によって昔の遺恨が見ずに流されるものと考えるならば、それは大きな間違いである。」

・政治=人間の生き方、というギリシャ哲学とマキャベリの哲学は全く異なるもの。

・運命は女性のようなもの。力を見せることも必要だが、半分くらいは運命のせめてある程度の部分を思い通りにしてやることが政治だ。運命を飼いならせ。(半分受け容れ、半分拒否せよ)

【2014/10/30 19:51】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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2006年中央(法学部) 「家というものは、自分のシェルターであり、自分の悪い所もすべて見ているものである。普段は気づかなくても家と言うものに対して、私たちは強い感情を持つものだ。また、自分の居場所、自分が誰かを思い起こさせるものは、家そのものだけでなく、子ども時代になじんだ歌、読んだ小説や、受けたしつけなど、色々なものがある。」

【2014/10/30 19:14】 | リーディング
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以前、ネイルサロンで購入したはちみつスクラブ。
ずっ前使っていたスクラブがようやくなくなって、やっとこれを使うことができます(笑)

はちみつの、すっごくいい香り!癒されそうで使うのが楽しみです。

【2014/10/30 17:37】 | 美容とか身だしなみとか買い物とか。
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『社会学の名著30』
古典や名著が簡単にわかりやすく書いてあります!冒頭にある先生の関連した体験談も面白かった。

以下、抜粋です。(→注・~   )は、私の感想、つぶやきです。

★ピーター・バーガー(1929~)<アメリカ>『社会学への招待』1963
「社会学者とは、アカデミックな肩書がなければ、ゴシップに熱中してしまうに違いない人物であり、鍵穴をのぞき、他人の手紙を読み、引き出しを開けようと心をそそられてしまう人物にすぎない」(→注・これ、爆笑しました!wwwww)
社会学をやる上での興奮は、遠い国の奇妙な習俗を発見する文化人類学のような、全く見知らぬものに出会う時の興奮ではない。そうではなく、「見慣れたものの意味が変容する時の興奮」である。今までの人生を通して生き続けてきた世界を、社会学のパースペクティブによって新しい光の下で見直すことが可能になるのである。

「ものごとは見かけどおりではない」背後にある構造を見て行かなくてはならない。
社会は、日曜学校で教えられる通りのものではないのである。

社会構造、メカニズムを見て行かなくてはならない。

構造がない、ということはありえないのである。例えば、恋愛。愛はいつでもどこでも燃え上がり、抗うことができない感情だということになっている。しかし、そうした公式的見解というファサードを取り去って実際の結婚を調べてみると、恋愛結婚でさえ、階級や所得、学歴、人種的、宗教的背景などの回路の中で行われている。
その「回路」がメカニズムである。

そもそも、好きになったら結婚したいと思ってしまうこと自体、我々がいかに社会に刻印されている存在かを示している。
(→注・先日、私の元生徒さんで40代女性の方が、同性愛者であることをカミングアウトされ、パートナーの女性と結婚式を挙げました。結婚式は同じ仲間(カウンセリングセミナーの仲間、セミナーの講師の人たち)が集まり、本当ににぎやかなものでした。私はその時、この生徒さんがどうしても「結婚式、それも皆に承認される形での結婚式」の形を選びたいと熱望したことに興味を持ちました。お二人で海外で二人だけで、という形でなく、こういう形を選んだことを。人が社会と切り離しては生きていけないことを強く認識した瞬間の1つになりました。余談ですが、生徒さんは髪を刈り上げ、タキシードを着て本当にお幸せそうでした!そしてパートナーの女性はとってもお美しくすらりとした美女でした!)

社会学を学ぶことによって、ほんのわずかかもしれないが、偏見から脱却し、自分自身の行う社会的関与により注意深くなるかもしれない。もしかしたら、社会を旅するうちに他人への共感がわずかでも深まるかもしれない。
社会学的視点は、単なる冷笑家の道になりかねない。そうした意味では毒薬である。しかし、毒薬をして気付け薬になれば、ちょっとした苦痛がやわらげられ、人生を少しばかり明るくすることがひょっとしたらできるのかもしれない。
(→注・これね~気を付けないとね。自分の思うほう、思う方に仮定・証明、とならないように気を付けないとね。そうなると毒薬が本当に毒薬で終わっちゃうから)


★ランドル・コリンズ(1941~)<アメリカ>『脱常識の社会学』1982
(→注・紹介されていて30冊の中では断トツにこれが面白そうだと思いました。即効で図書館で借りてきました。これから読もうと思います)

「合理性」を社会の存立基盤とする説明は神話にすぎない、としたところに社会学の功績がある。合理性は限られたものであり、一定の条件の下においてのみ、生じるだけではなく、社会そのものが究極的には論理的思考や合理的協約ではなく、非合理的な基盤にあるのである。
社会の基盤にあるのは「計算ではなく深い感情」である。

合理性だけでは、行為の説明はできない。ゆえに、社会や集団にはこの種の非合理的な感情をつくり、維持していくための様々な社会的儀礼が張り巡らされている。打算と計算だけの人があまり出世しないのは、集団をまとめているこうした非合理的な感情を理解していないからである。

「自動車修理工と死者とでは、それぞれの分野で具合の悪いところを直すという点では、修理工のほうがはるかに便りになる。だがまさにそのために修理工の技能は高く評価されない。」「人はなぜ結婚するのか」
(→注・この答えを早く知りたくてたまりません。早くこの本を読みたいww)


★エミール・デュルケーム(1858~1917)<フランス>『自殺論』1897
(→注・この本は読んだことがありますが、図書館で借りる時やや恥ずかしかった記憶があります(笑)また、私と同じように「恥ずかしかった」と書いてあるブログも見たことがあります(笑))

社会を構成しているのは、個人であり、個人こそもっとも目に見える存在だから、社会現象の原因は個人にある、という論理の筋道ほど俗耳に入りやすいものはない。
社会が個人の意思や欲望だけで説明できるものであれば、そもそも社会は存在しないことになる。
(→注・以前、「ぐうたらなニートの同級生」をちやほやして、優等生の自分の息子さんをないがしろにする小学校の担任の先生に激怒するブロガーさんのお話を書いたことを思いだしました。個人、のレベルでないところに社会構造の複雑さ、面白さがわかり、ぞくぞくする思いです(笑)しかし、面白いというより、やっかいですね。でも面白いけど(笑))

自殺には3種類あると考えられる。
・孤独による自殺。個人が集団との結びつきが弱まることによって起こる自殺。
・殉死のように集団が個人に重くのしかかった時に起こる自殺。
・アノミー的自殺。
(→注・アノミー的自殺、というとR研のS氏を思い出します。まさに氏の場合はアノミー的自殺、だったのではないでしょうか。永遠に欲望を満たすことのできない焦り。もっともっとと望んでしまう苦しみ。社会的規則が少ない状態においておこる自殺ですから。規範が緩み、より多くの自由が手に入り、その結果、どんどん自分の欲望がわいてくる。当時、R研では相当の裁量がS氏に任されていたといいます。インチキ「美人」科学者Oさんと何をしようと咎めるものはいなかった。税金もとり放題だったのかも。ノーベル賞やらなにやら色々欲しいものがふくらんでいったのでしょうね。今となっては推測するしかありませんけど。おそらく日本一頭のいい人だったのに。残念なことです。切ないですね。ご冥福をお祈り致します。)


★ゲオルク・ジンメル(1858~1918)<ドイツ>『社会学』1908
前述デュルケムとの比較
デュルケムは、個人に還元されない「集合意識」や「制度」などの社会的事実という概念を発見することで社会学の領域を確立した。
ジンメルは、「社会化の形式」をいう独自の概念を発見した。

「社会化の形式」とは何か。
社会化とは人々が関係しあって、まとまりがある状態のことである。社会化は個人間の相互作用によって存立する。相互作用は社会や政党、芸術の流派、学校など、それぞれの集団などに起こり、それぞれの相互作用は、集団によってそれぞれに異なっている。
しかし、相互作用の「形式」に注目すれば、支配・服従や競争・党派形式などはいかなる集団にも共通に見つけることができる。
(→注・この「形式」には最近話題の「マウンティング」もはいるんでしょうか(笑)私はそう思います。ママ友、学校、会社、趣味の仲間、偶然出会った人との会話。「マウンティング」はどこにでもある「共通」のコミュニケーション方法の1つだからです。生徒さんでママをやっていらっしゃる方にお話しを伺うと、ママ友の中のマウンティングはすさまじいですね。それをみなさんすずしい顔でやり過ごす。むしろその「マウンティング」を楽しんでいるかのようにすら見えます。強い精神力をお持ちだと思います…

ここでこっそり告白しますが、以前この「マウンティング」がひどい某生徒さん(当時40代専業主婦子育て中女性)とのレッスンを解消したことがあります。長い英語講師生活で、私から解消を申し出た、本当に数少ない、というよりほとんどいない生徒さんのおひとりでした。様々な発言の数々がありました。

「おひとりくらいお産みになればよろしいのにぃ~きゃはは・・・」
(よけいなお世話だわぁ、私は子どもは欲しくないんだってば!笑)

「○○大(私の当時の出身大)なんて、名前を書ければ入れますよねぇ」
(私が生徒さんの考えるところの「名門大(旧帝大・早慶など)」を出ていないことをあてこすっての発言。ご自身は高卒だったのに!でも、こういうタイプの人はやっかいなので、私は自分の当時の出身大学を言いたくなかったんです。でも本当にもうしつこく聞きだすものだから!)

「うちの子には弁護士か医師になってもらいたいんです。教員とかじゃお給料安いし」(私も教員みたいなものですけど・・・はいはい)

「ご主人は、先生のネイルを見てよくなにもおっしゃいませんねぇ~。」
(うちの旦那は私のネイルを楽しみにしてます、ご心配にはおよびません。)

「お仕事ばっかりで家事とかする暇ないんじゃないですかぁ、ネイルもきらきらなさってるしぃ~。」
(家事は一応ちゃんとやってます、ご心配にはおよびません。)

「高そうな手帳ですね~お子さんがいないと贅沢できますよねぇ~」
(シャネル好きなんです、ほっといて下さいw)

「子どもがいないからご主人と贅沢なさってるんでしょうね、高いレストランでお食事とか~いいですねぇ♪」
(はい、旦那と楽しんでます、あなたには関係ないですけど)

・・・・などなど「マウンティング」の要素はいくつかありました。職業ですから、私が英語が出来るのは当然なのですが、その英語力ですら、マウンティングの対象になりました。「私、英語みたいに暗記さえすればいいものって苦手なんですぅ~暗記だけしてるってつまらなくって飽きちゃうんです~もっとアタマを使いたいって思っちゃってぇ~思考力を要するものならすっごく得意なんですぅ」とか言われましたから・・・(爆笑)思考力がないから英語できないんじゃない?簡単な文法も理解できないでっていうのは毒舌ですね笑 それになんでそんな「軽蔑」している英語を必死にマスターしたいのっていう話ですが(苦笑)
でも、今ではとても感謝しています。今、私が学問をやれているのは、あの時私の学歴にいろいろおっしゃってくれたことも関係していますからw 学歴もこんなこと言うのもなんですけれど、最高のものが手にできそうですしね。うふふ。
大変な時はいつも思い出しています。そうすると勉強が頑張れますww ありがとうございます!笑

ただ「マウンティング」は「支配・服従」というよりは当人たちの「コンプレックス」がはっきり反映されるものだと思うので、また特殊なものだと思います。スクールカースト同様、今後社会学で取り上げられるかもしれませんね(!?)
私の元生徒さんの件もそうですが、元生徒さんはご自分が高卒であること、ネイルなどのおしゃれをする余裕がないこと、英語ができないこと、子育てで余裕がないこと、自分の子どもの成績が思うように伸びないこと、などにコンプレックスがあったことは明白です。
「コンプレックス」と「格差」、というのも今後面白い社会学のポイントになるかもしれません。展開はかなり難しいのは確かですが。

ずいぶんジンメルから脱線してしまいましたw)

★カール・マルクス(1818~1983)<ドイツ>『共産党宣言』1848
あらゆる社会の歴史は、「階級」闘争の歴史である。
圧制する者と圧制される者が対立して闘争を行ってきたのがこれまでの歴史である。

階級闘争の歴史の中でも、封建社会を没落に追いやり、資本主義社会をうちたてたブルジョア(資本家)階級の革命が高く評価される。

しかし、のちに資本主義社会とその支配階級であるブルジョア階級を打ち倒すプロレタリア階級が大量に産出される。階級対立は、ブルジョワ階級をプロレタリア階級の二大陣営に単純化された。

これまで、支配権を獲得した階級は全社会を自分の利得に合わせることで既得権を確保しようとした。しかし、プロレタリアによる革命は、過去の革命のように新しい支配権を作り出すのではない。プロレタリア階級が革命によって支配階級となり、古い生産関係を廃止すれば階級の存在はなくなり、階級対立も消滅する。

「支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがよい。プロレタリアは革命においてくさりのほか失うものはない。彼らが獲得するものは世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ!」

生産力と生産関係の「矛盾」や、「階級闘争」を体系的に展開したのはマルクスの功績である。
(→注・でも、階級ってなくならないような気がする。だったら階級がある、格差があるってことをいったん認めたほうがいいような気がする。これって『教室内カースト』を読んだ時も全く同じことを思った。だってマルクスの時代19世紀から2014年の今まで、ずっと階級、階級言ってるんだよ!w もはやなくすなんて無理だと思う。だったらいったん認めた上でどうしたら良いのかってことを論じたほうが建設的では。でもそうなると「なんでなくせないのか」って絶対突っ込まれるんだよな~でも、とても興味あるポイントです、私にとっては。)


★マックス・ウェーバー(1864~1920)<ドイツ>『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1904-5
(→注・この章、著者の先生の体験談が非常に面白かった。この先生は体験談を雑談風に冒頭に持ってくるのが本当にお上手です。優れた学者であり、教育者であるって素晴らしい。この章で、先生はいとこさんの体験を書かれています。いとこさんは外資系の社員。開発途上国にての体験を語っていらっしゃる。「その国の人たちはほんと、働かないんだよね~働いたらお金も地位も上がることがわかってるんだよ。ただで働けなんて言っていない。なのに働かない。なんでかね~。開発途上国の人たちは、先天的に怠惰なんだろうかね。」このエピソードが次につながるのです。)

ウェーバーは、近代資本主義が遭遇しなければならなかった頑固な障壁として「伝統主義的な生活態度」を挙げている。
「報酬の多いことよりも、労働の少ないことの方が人々を動かし刺激であった。人は生まれながらにできるだけ多くの貨幣を得ようと望むのではなくて、むしろ簡素に生活する、つまり、習慣としてきた生活を続け、それに必要なものを手に入れることだけを願うに過ぎない。」
自明とされている勤勉は、「ある種のウィルス」に精神が感染しないとおこらない代物ともいえる。

近代資本主義は、伝統的な勤労意欲(必要なものを手にするのに十分なだけほどほどに稼ぐ)からの精神の飛躍がなされなければ生じなかったはずである。それも孤立的ではなく、一定の拡がりをもった集団によって成立していなければならない。

近代的企業の資本家や企業経営者、上層の熟練労働者にはプロテスタントが多いことがわかる。しかし、プロテスタントはカトリックと比べてはるかに非世俗的・禁欲的である。このことと、資本主義的営利生活は一見して対立するはずなのに、こうした逆説はなぜ起こるのであろうか。

ウェーバーは、プロテスタンティズムのなかでも特にカルヴィニズムの予言説に注目する。予定説とは人の救済と断罪はこの世の善行や悔い改めなどとは一切関係なく、あらかじめ神によって決められているというものである。しかし、神は絶対であるから、人々は神に選ばれているか、呪われているかを知ることはできない。信徒は不安に陥る。疑惑を拭い去り、自らを選ばれた者と見出すために職業への献身が奨励された。禁欲的に職業に検診して、不安を鎮め、神に選ばれているという自己確信を得ようとした。

その結果、利潤や収入が上昇するが、それを享楽的目的に用いることは禁止されているから、資本が形成された。資本が形成され、利潤はさらに投資され、拡大再生産がなされる。この意味で、プロテスタンティズムは、資本主義の担い手であった、企業者や労働者の「主体」を形成した。これは「意図されなかった結果」と言える。
プロテスタンティズムの関心はもともと、魂の救済であったので、信仰と事業の関係は「意図されなかった結果」であった。「意図されなかった結果」としてのプロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神の親和関係が広大なスケールで描かれている。

最後にウェーバーは近代資本主義の結末を次のように言う。
「近代資本主義が成熟することによって、宗教倫理の必要がなくなり、ひたすら働かないと生きていけない鉄の外枠となる。」

☆☆☆
この本とは関係がないですが、ウェーバーというと、「社会的行為」で有名ですね。
メモ代わりにちょっとここにも書いておきます。
<社会的行為>
社会的行為とは、他者とのかかわりにおいてなされる行為のこと。ウェーバーは社会的行為を「目的合理的行為」「価値合理的行為」「感情的行為」「伝統的行為」の四種類を提唱している。
「目的合理的行為」
将来に対して目標をたて、その目標を目指して一連の行為をするものを指す。(例・博士号を取りたい! だから勉強する!)

「価値合理的行為」
何らかの結果を期待して行うのではなく、ある価値(宗教・道徳・芸術など)を無条件・意識的に確信することによって方向付けられる行為。(この例としては「日本人が仏壇に手を合わせる」というのが出てきますが、私はいつも前述にあげた(ジンメルのところで)元生徒さんを思い出します(笑)
元生徒さんは一週間に一度くらい、お子さん2人を連れて、東大のキャンパスを散歩し、食事をすることを習慣にしていらっしゃいました(笑)
お子さんを東大に連れて行ってもすぐさまお子さんの成績が上がるなどということは、いくら元生徒さんがクレージーな人でも思っていなかったでしょう。でも、行かざるを得ないほどに毎週行ってしまう。まさに「何らかの結果(お子さんの成績向上)を期待して行うのではなく、ある価値(東大の学歴)を無条件に確信することで方向付けられる行為」でしょう。

また、別のご父兄ですが、慶應の福澤諭吉先生の銅像の下に五円玉を埋めにいったというお話も伺ったことがあります。福澤諭吉銅像のもとに五円玉(ご縁がありますように、の願いを込めて)を埋めたからといって、お子さんが慶應に受かるとはもちろん思っていません。しかし、ある価値(ここでは慶應の学歴)を確信することによって、方向付けられる行為、といってよいでしょう。

「感情的行為」
感動や感情につき動かされて行われる行為。その時の感情を充足するためになされる。(例、いい気持ちになりたい、復讐したい、など)

「伝統的行為」
習慣的に無意識に、何も考えずとも体が動く行為のこと。(例・朝目覚ましを止める、歯磨き粉を歯ブラシにつけて歯を磨き始める、など)


★ユルゲン・ハーバーマス(1929~)<ドイツ>『公共性の構造転換』1962
ハーバーマスは「文芸的な公共圏」には次のような基準があるとした。
1)「そもそも社会的地位を度外視するような社交様式」「対等性の作法」
2)「それまで問題なく通用していた領域を問題化すること」要は、公式の解釈に対して、違った見方を提示し、それをもとに議論することができること。
3)「万人がその討論に参加しうること」、現実の特定の共同体とは結びつかないこと。

コミュニケーションを可能にする公共的な言論の空間である。


★ミシェル・フーコー(1929~84)<フランス>『監獄の誕生』1975
直接的な禁止から次第に精神的な矯正へと移っていくことで、ネットワーク的に私たちは管理されるようになっていった。

従来は、罪人に対しては残虐な身体罰(八つ裂きとか)が施されていましたが、そうした直接的な身体への罰が民衆からの反発を受けることによって、次第に「罪人を一次的に隔離し、教育しなおす」という現代の監獄のシステムが誕生するようになった。

そうした監視=矯正のシステムが整うのと同時に、教育の場においてそもそも罪を犯さない(=権力に逆らわない)人格の形成が目指されるようになった。

もともとは外部からの暴力であった処罰というものが、いまでは形を変えて、わたしたちの生そのものを罪を犯さないものへと変容するものとして働くようになっている。

直接的にわたしたちを攻撃するという形態から、知らず知らずのうちにわたしたちの在り方そのものをコントロールする形態へと権力の働き方が変わってきている。

ウェーバーは権力を「支配者が非支配者に義務や禁止として上から下へ強制するもの」とした。しかし、近代社会の権力は、そのような支配者階級の特権として理解されるべきものではなく、制度や諸関連の網の目の中の日常のネットワークで働いているのである。


★ピエール・ブルデュー(1930~2002)<フランス>『ディスタンクシオン』
1975
文化資産は、相続というよりも獲得されたもの、あるいは能力や才能として「誤認されることで認証される」
学校制度によってだけ習得した正当文化は「ぎこちなく」「ヒモの通っていない数珠玉のようなもの」と言われる。

(→注・ネットでよく通信制大学がバカにされている書きこみを見ます。それによると「通信制大学を卒業することが難しいことは認める。努力する才能を持ち、学力があることも認める。でも、育ちが悪い、貧乏な家の出って感じがするんだよね~所詮底辺っていう感じ~ww」というもの。この発言がいいかどうかは置いておいて、こういう考え方が存在することには注目したいと思います。)

(→注・文化資産は、「資産」というからには受け継がれていかねばならないものでしょう。しかし、私が最近注目しているのは、「自分がそういう資産を持っていないのだが、子どもの代からその資産を身につけようとする人々」でしょうか。
前述した「元生徒さん」もそうですし。
また、私が知っている別の女性も、奮闘しています。子どもに色々な名作を読ませたいのだけど、何しろ自分が読んでいないからよくわからない。最近「花子とアン」というドラマが流行ったせいで、「赤毛のアン」を読ませないと!大変!と思ったらしいんですが、本屋に行ってみたけど、「アン」がたくさんあってどれかわからない、というんです。アンシリーズたくさんありますからね。「赤毛のアンなんて小説があるなんて、聞いたこともなかった」という層の人がどうやって子どもに文化資産を「作って」「伝えて」いくのか興味があります。こうやって書くと意地悪く聞こえてしまいますが、それは私の本意ではありません。今のところお子さん(小学校4年生)は学業も優秀で、本好きに育っているようです。バイオリンのコンクールでは優勝したり、教養を吸収して良いお嬢さんに育っています。この女性は「元生徒」さんと違い前向きで明るい性格。謙虚さもお持ちですし、ご自分にあるもの、ないもの、をしっかり見極めていらっしゃる。自分が持っているところには誇りを持ち、アイデンティティーのよりどころにしっかりしている。そういうところも大きいと思います。)


★ハロルド・ガーフィンケル(1917~)<アメリカ>『エスノメソドロジー』
1967
エスノメソドロジー
「人々の日常生活の方法の研究」を表すもの。従来の科学的モデルや 合理性の概念を前提にした研究ではなく、生活世界に焦点を当て、人々の 共有する常識的思考を「日常会話の分析」により、 解明しようとするもの。
エスノグラフィーとの違い
<エスノグラフィー>
エスノグラフィーは文化人類学での分野で使われる。
ある特定の状況の固有の特徴を記述。
成員たちが何をしているのかを記述。

<エスノメソドロジー>
成員が「どのように」特定の特徴を明らかにするのかを記述。
成員たちの方法を記述

規則が社会の成員を拘束することで秩序が生まれるのではなく、「秩序はそのつどそのつど、成員によって達成される。」だからこそ、そこに秩序が生成されていく様を分析することは当該社会の理解を助けるのである。


★ポール・ウィリス(1945~)<イギリス>『ハマータウンの野郎ども』1977
階層最下層にある「劣等生」は「自分自身のことをどうみなしているのか?」に焦点をあてた著作。
・セックスや飲酒、禁酒などの享楽主義、肉体労働が賛美される。
・権威に従順な優等生を馬鹿にしている。
・メリトクラティック的な価値、能力、業績による社会的地位の獲得に全く価値を見出さない。階級の上昇など考えもしない。
・ホワイトカラーの仕事を女々しいものとして見下している。ゆえに、「自ら(ここが大事!)」過酷な肉体労働を引き受けている。そして、社会的再生産されている。

(→注・以前書いたブログの記事を思い出しました。面白い点は、彼らが「自ら」下層階級を選び取っているということだと思います。そしてそれを「誇り」にしている。「自ら」下級の(上流階級者がやりたくもない、忌み嫌う)労働をすることを選び取っている。そしてそれがまた再生産されていくこと、です。)

★アンソニー・ギデンズ(1938~)<イギリス>『近代とはいかなる時代か?』
1990
(→注・この章冒頭に竹内先生が示している40年ほど昔の石原慎太郎と全共闘学生とのやりとりの再現が面白い!石原氏は学生たちに「君たちが信奉しているマルクスの予測命題はことごとく間違っているんだよ。」と言う。「資本主義が進めば進むほど、労働者の賃金は相対的にも絶対的にも窮乏化するという予測命題も間違っている。」と。「今の世の中を見てみなさい。(当時、高度成長期真っ盛り)その予測は間違っているじゃないか。」と言い放つ。学生たちはロクに反論もできなかった、というエピソード。
しかし、竹内先生は言います。「予測が正しかったからこそ、予測通りにはならなかったのだ。」と。予測が成されなかったら、たどったであろう道筋を、予測が成されたことで人間行動を変えさせその道筋に至らなくさせたのだ、という考え方。
逆に、健全経営をしている銀行について破産するという虚偽のうわさが広がり、取り付け騒ぎを起こして破産するような、間違った予測が新しい行動を引き起こし、最初の誤った予測を真実にしてしまうこともあるのである。)

ギデンズはこうした予言の自滅や自己成就に関連することを「再規性」と呼んでいる。
思考と行為が互いに反照しあうこと、このような再規制が見境もなく続くことが近代の特質なのである。

近代社会のリスクは、時空間の分離などにより、複雑性が増し、広範囲に渡り、意図しなかった帰結が次々と出てくることである。また再規性により、思わぬ社会現象が次々と現れることである。


★アーリー・ホックシールド(1940~)<アメリカ>『管理される心』1983
感情の商品化。
他者への気配りと配慮を旨とする労働を「感情労働」と言う。
(→注・今は、患者さんは「患者様」生徒さんは「生徒様」、学校の先生で自分の生徒のことを「クライアント」と呼んでいるのを見たこともあります(笑))

今や企業が感情管理を行っている。もしマルクスが今の世の中に生きていれば、従業員の感情が誰の資本であり、誰がその資本を動かし、搾取し、どのように利潤を生んでいるかを知りたいと思うに違いないだろう。

「表層演技」だけではなく、過去に自分に起こった悲しいことを思いだす「深層演技」もある。

しかし、感情労働の時代において「私は本当はどう感じているのか」という本当の感情探しが恒常化していく。

【2014/10/30 14:33】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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慶應(法)2008 (会話文)「架空のアーティストのインタビュー」

同上「現代の医師の役割と、医師たちが直面している問題について」

【2014/10/29 14:06】 | リーディング
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慶應(法)2008年 (物語文)「架空の国に起こった、金(ゴールド)をめぐる騒動と悲劇」

【2014/10/28 18:59】 | リーディング
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慶應(法)2008年 (会話文)「お菓子の起源、歴史について」

【2014/10/27 18:54】 | リーディング
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昨日は英語の勉強会のあと、ネイルサロンへ。
きらきらで綺麗です。

そのあと、カフェで勉強。

夜はロールキャベツとシャンパンのあとSVUをまったり楽しみました。

【2014/10/27 14:34】 | 短い爪でもネイルアートは楽しいです。
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ご父兄から。
かわいい!
















【2014/10/27 14:33】 | 日記
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掲示板見てたら

>40超えてからがん検診とかしてない。子供も就職したし役目は終わったかなと。
長生きできりゃそれでいいけど、無理して寿命を伸ばそうとは思ってない。
年寄が長く生きてるのは見苦しいし、年寄りが何か新しくはじめたり勉強したりするのは、よりいっそう見苦しい
放送大学とかほんと税金のムダ、つぶしちゃえばいいのに

>私なんて今40だけど、もう余生だと思っている
健康診断のお知らせなんて全部スルー
子供も義務教育終わったし、生物的に種も残したし、もういつ死んでも惜しくない
生物的にと書いて気づいたけど大して優秀でもない遺伝子なんて残さなくても良かったかも
あとは欲をかかず静かに過ごして果てたい
だから高齢者が欲出しているのを見ると軽蔑してしまう
健康に気を使う年寄とか見苦しい
若者のためにさっさと死ぬべき

>元気な年寄りってほんと老害、死に損ないの集団
金と暇を持て余してる死に損ないは、羨ましいとは思うけれど



という意見が結構あったのでびっくりした!!
そうか~!だから皆さん健康診断しないのね~「自分だけは病気しない」じゃなくて「早く死にたい」からなのね。
納得。

子育て終えたら人生これから、じゃないのか~
旦那さんと旅行したり、出かけたり、お二人でのんびりしたりするの、楽しみじゃないのか!!
今まで読めなかった本とか読んだりしたいと思わないのか・・・
早く自分が死んだら旦那さんが悲しむとか思わないのか!!

衝撃でした。
でも、勉強になりました。こういう考え方があるのか・・・!!!

こういう女性たちが「50才で東大に行った主婦女性」を発狂したように叩くんだろうなと思ったわ。
老後に生きがいがある人がうらやましいのね。納得。

【2014/10/27 12:55】 | 日記
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2010年早稲田(法)<イディオム問題絡みで>「仕事が忙しいため、体重増加してしまい、医師に注意される人の話」

2004年中央(法)<文法問題絡みで>(物語文)「孤児の貧しい少年の生活と、少年の家の周りの自然描写」

【2014/10/26 12:14】 | リーディング
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2010年早稲田(法)(復習) 「言論の自由の是非について」
1)アメリカではヘイトスピーチについて慣用な傾向、ヨーロッパでは厳しく制限をかけていく傾向にある。この違いを考えていくことは、民主主義における言論の自由について考えることにつながる。

2)言論の自由の扱い方については、文化の違い、歴史の違いが影響している。例えば、ドイツではヘイトスピーチを認めることは「虐殺などなかった」と言うことである。

3)しかしながら、実際には歴史や文化的要素以外のものが問題になっている。例えば、「言論の自由を(たとえヘイトスピーチに対してですら)認めることは、新しい発見につながる。」「自由な意見交換の権利は守られるべきである。」「言論の自由は個人の成長へつながる。」など。

4)言論の自由に対しての例外はあくまでも限られたものにするべき、とする意見がある。その例外として、ヘイトスピーチを取り締まる、というものである。「検閲によって(民主主義への介入という意味での)犠牲があるかもしれないが、それよりも、そうした(ヘイトスピーチによる)モラル崩壊を防ぐことのほうが大事である。」「ヘイトスピーチを取り締まることによってお互いの尊敬を促すことができる」とする意見もある。

5)しかし、そうした意見にもまた反論がある。政府の介入はあくまでも中立でなくてはならないとする意見である。言論の自由に制限をかけることは、民主主義的な意見のやりとりをする能力を失わせる、というものである。

6)政府が言論に圧力をかけることは、逆効果であろう、とする意見もある。ヘイトスピーチなどにおいて衝突がおきるならば、(政府による)暴力(=制限)ではなく、お互いのやりとりで解決すべきというものである。ヘイトスピーチをコントロールするならば、政府がどの意見が違法なのか設定しなくてはならない。しかし、その境界線がはっきりとしないのである。

7)ヨーロッパにおける裁判では、法律がヘイトスピーチをうまく抑えていないことを明らかにしているようなものだ。あきらかに裁判の決定が厳しすぎる状態になっているのである。

8)海をわたったところにある両方の人々にとって、言論の自由についての問題は難しいものである。しかしながら、ヘイトスピーチですら言論の自由にのっとって守るということは、民主主義の文化として必要なものなのではないか。そのジレンマに悩むというそのこと自体が、民主主義の成功を意味するのである。

【2014/10/25 15:01】 | リーディング
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2010年早稲田(法)(復習) 「言論の自由の是非について。賛否両論あるが、言論を無理に法で押さえつけてもその悪影響がそれ以上に大きく出る可能性がある。たとえヘイト・スピーチであっても、言論の自由を守るという立場をとることによって、新しい発想、立場が生まれ、良い方向にいくものではないだろうか。」

【2014/10/24 17:40】 | リーディング
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【2014/10/23 12:09】 | 我が家のネコちゃんムータン日記
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埼玉の東松山というところでレッスン。
うちからは遠いのでちょっとした出張気分で楽しい♪

生徒さんのパートナー(なんと元調理師!)がランチを作って下さいます。
色とりどりでとても綺麗~♪
美味しかった!






これに+してごはんとお味噌汁も全部残さず頂きました。ありがとうございました!

1か月ぶりのレッスンはとても楽しかったです。

【2014/10/23 12:05】 | 日記
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2010年早稲田(法) 「言論の自由の是非について」

【2014/10/23 12:02】 | リーディング
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2010年早稲田(法) 「今や子どもたちの危険を案じて(何が危険なのかというはっきりとした根拠もないままに親たちが感じている恐怖によって)子どもたちが自由に冒険する機会が失われている。それによって子どもたちの創造性に影響が出て、将来的には、文学の世界にもマイナスの影響が出るのではないだろうか。」

【2014/10/22 16:42】 | リーディング
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2004年 慶應法学部 (復習) 「Latroman people の歴史」

【2014/10/21 19:37】 | リーディング
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facebook 友人の記事
hit the wall  ばてばて状態・・・だそうです。本日アテネについたとか(^^

2008年 東工大後期過去問題 (復習)
「(ランチを食べながら)商談をする際の、レストランの条件について」
「バイリンガルの人々は一般で信じられているよりもずっと多い。また一つの言語をみな、完璧に話しているわけではない。状況によって言語を使い分けているのである。」

2004年 慶應法学部 「Latroman people の歴史」

【2014/10/20 17:45】 | リーディング
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2004年 慶應法学部「宇宙における生命の可能性。もともと可能性として他文明がミルキーウェイにあるとは思えない。別の銀河には文化があるのではないか。」

【2014/10/19 19:37】 | リーディング
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2004年 慶應法学部(会話文)「父親が仕事に失敗したために、クリスマス休暇に、ルームメートを招くのを躊躇する大学生の話」

同上(インタビュー)「死刑制度の是非について」

【2014/10/18 17:36】 | リーディング
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31IDHeY20ML__SY344_BO1,204,203,200_

・「いじめ」に関する先行研究
森田洋司「いじめ集団の四層構造」
加害者・被害者、の特徴を見出そうとするのではなく、「いじめ」全体の構造を明らかにしようとした最初の研究。
被害者―加害者―観衆―傍観者・もしくは仲裁者

いじめ、か、いじめかどうかは、もはや関係ない。
「なんとなく下にみられているような感覚」が起こるメカニズムを解明することが大事。
それが「いじめ」と認定されるかどうかは関係ない。「行為そのもの」を見る。


「スクールカースト」の研究は、「いじめ」研究が見逃してきたエアポケットを探るようなものである。

・「スクールカースト」は「いじめ」とは異なる。「なんとなく下にみられている感覚」が起こる状態。いじめとは異なるが、いじめにつながることがある。いじめの培地であり、いじめと連続している。

「スクールカースト」は社会がメリトクラシーからハイパー・メリトクラシーへと移行しつつあることと関係がある。
(注・「ハイパー・メリトクラシー」メリトクラシー社会では、一定の型に従って努力を積み、経験と訓練を重ねれば、一定の能力を身につけ、ある程度の地位や役職につくことが期待できた。例えば、高度成長期時代の日本では学歴を得、大企業の正社員になれ、その後努力すれば、出世をすることができた。これに対し「ハイパー・メリトクラシー」は、「能力主義を超えた能力主義」を意味している。コミュニケーション能力や、独創力、問題解決能力、さらには「感じの良さ」「人間力」など、数値化、測定化できない曖昧な能力に基づく「超能力主義」を指す。
ハイパー・メリトクラシー社会では「努力すれば報われる」というメリトクラシー社会で多くの人が持つことができた期待が成立しにくくなる。これは、ここ20年ほどで、、日本経済の脱工業化が進んだことが要因の1つとも考えられている。)
(注・「脱工業化」とは工業社会がさらに発展し、知識・情報・サービスなどを扱う第三次産業の占める割合が高まった社会のこと。情報社会。)
コミュニケーション能力、人間力、生きる力(果ては女子力なんていうのまで!)など、数字で図りにくい能力が、「スクールカースト」の形成に関係がある。

・生徒たちから見た「スクールカースト」は「権力」「固定性」「教師からの権力関係の承認」である。(固定性とは、一度格差が認められるとクラスが変わったりなどしてもその関係が引き継がれるということ。友達の友達という感じで情報が伝わるため。)

・教師からみた「スクールカースト」
-スクール・カースト上位の子どもたちは、自分の思っていることをきちんと表現できる、と教師は思っている。それがどんな自己主張(的外れであっても)みんなに反論させない力がある。

-スクール・カースト上位の子を、「コミュニケーション能力」「自己表現能力」があって、人脈も豊富で将来も安泰だと教師は見做している。逆にスクール・カースト下位の子に対しては「将来が不安だ、あんなんじゃ将来ダメだろうな、あんな人材は企業ではいらない。オタクで気も弱く、自分が表現できず、コミュニケーション能力もないんだから。」と見做している。「下位のやつらは暗くて、人生損してる」と教師は思っている。

-教師は、クラス運営のためにスクールカーストを利用している。カースト上位の子を利用して、クラス運営をスムーズに進める。

-教師はスクールカーストは否定できないもの、なくてはならないもの、とむしろ肯定的に見做している。
社会どこにでも格差はあるもの。もし、自分が「カースト下位」にいるとわかったなら、どうして「下位」に甘んじなければならないのか知ることは大事だと教師は思っている。そうした自分の弱さを補正して社会に出ることが大事であると教師は思っている。

生徒→「スクールカースト」=権力 とみなす。
生徒は、スクール・カーストを好ましいものとは思っていない。(下位にいる者はもちろん、上位にいる者たちも、上位にいるならではの役割を果たすことでのプレッシャー、また下位に落ちたらどうしよう、嫌だ、などのプレッシャーがある。)しかし、権力関係があるため、消極的な理由から、スクールカーストの存在を認めている。下位にいる者たちは、上位の者を好きなわけではない。上位の者たちは「人気者」のように一見見えるがそれは違う。権力を恐れて下位の者たちは従っているだけである。
教師→「スクールカースト」=能力 とみなす。
教師は、「スクールカースト」を「能力」と見做しているからこそ、そうした格差が教室で必要だと思っている。能力が足りない人間にとっては、足りないところを補う機会になると考えている。よって、教師は積極的な理由からスクール・カーストの存在を認めている。

・いじめは序列を生まない。序列がいじめを生む。

・教師は本来「いじめ」を早期に察知し、それを是正しなくてはならないが、いじめの培地であるスクールカーストの維持に教師が加担しているということは、この問題の根の深さを示す。

・これは「人がその能力によって評価され、社会的な位置づけを得る」ということを、正しいこと、望ましいこととして広く強く受けいれている社会の状況と関係がある。

・「人間のあいだの地位の序列なんてどこにでもあることだ」「それをなくすこともできないし、問題視する必要もない」という往々に見られる考え方に対し「本当にそうなのだろうか」と考え直してみる必要があるのでは。


<著者のアドバイス-児童・生徒たちへ->
・学校での人間関係は「期間限定」であることを忘れてはいけない。

・また塾や予備校で学校とは別の価値観を見出すことも可能。高卒認定をとってもいいし、フリースクールだってある。


<著者のアドバイスー教師たちへ>
・○○力を評価するときは、慎重になる必要がある。違う場所だったら違ったふうにこの子は見えるのじゃないかな? もしかしたらこの能力はあるように見えているだけではないかな? などのように考えることも必要。

<今後の研究課題>
・グループ関係(スクール・カーストの格差関係)だけではなく、「グループ内」の人間関係も見て行かなくてはならない。

・「スクール・カースト」なんて経験したことがない、という学生や教師にもインタビューをしなくてはならない。

・国際比較や年代比較の視点が必要。
今の子どもたち特有の問題? 昔からあったのか?
日本だけの現象? 海外でもあるの?


<あとがき>
・こんな研究が進んでも現場が混乱するだけ、という声もあるが、問題が起きているのにそれに目をつぶることは解決にならない。問題のメカニズムを発見し、解決策につなげるべき。

★★★
アマゾンの書評の中から面白いと思ったものを引用させて頂きます。
全体的にインタビューサンプルが少なかったところを酷評されている方が多かったです。しかし、アンケートは3000を超えて調査されていますし、著者も「これからの研究」と言っているので、そのあたりは批評しなくてもいいのでは、と個人的には思います。

途中にある教師のインタビューがひどい!と怒って、本の評価を下げている方が多かったのが興味深かったです。
まあ、「いや~スクールカースト下位の奴らは将来ダメでしょ」なんて言うのを読んじゃうとそりゃあ、なんだか「オイ」と言いたくなるのですが(笑)
しかし、先生だけ責めても、解決にはなりません。それを書き起こした著者を責めても解決にはならない。
先生の性格が悪いから、先生はそんなことを言っているのではない。何が先生をそんな言動に追いやっているのか、を探るのが「教育社会学」ではないかと。私は「教育社会学」のそういう面にとても興味を感じるのです。

では、引用します。
★★★

「ギャル」や「ギャル男」は10代後半から20代前半の短い期間においては社会で優位な地位を占めていると捉えることもできるかもしれないが、20代後半以後において同様とは(少なくとも私は)思えない。

そうであるならば、中学や高校の短い期間だけにおいてのみ支配的である「スクールカースト」という価値観を先生が積極的に認めてどうするのだろうか、単なる自身の教室内の地位の保身でしかないのでは、という気がしてくる。


学校生活は人生において僅かな時間に過ぎないかもしれませんが、社会的スキルを学ぶ大切な場でもあります。
カーストで辛い思いをしている生徒に不登校や引きこもりを促し、成長の機会から遠ざけるのが正しいことでしょうか。
コミュ力で劣る彼らが、塾やバイトなど他のコミュニティでなら良い人間関係を築けるという保証はないのに、無責任すぎます。
東大の先生だからといって、実際に児童と接した経験が少ないのに安易にメッセージを発してはダメだと思います。


私は、目立たない生徒で過ごしたので、尚更このインタビューを見て非常に不愉快な気分になった。
そして、このような教師をデーターにしてもスクールカーストを位置付けるのに何の意味がない。
いくらんでも、こんな教師ばかりではないだろうと感じてしまう。



<方法の問題>
このスクールカーストを概念化するために、本書では数名の学生へのインタビューを行っているが、実はここにかなりの問題がある。
他のレビュアーも書いているが、この種のインタビューに依存した社会科学の研究の質は、研究対象の現実認識・社会認識能力に依存する。
研究対象が自分の属する(属していた)社会を適切に認識できない場合、聞き取りの結果には'@未熟な調査対象による不適切な現実の認識か'A調査者の与えたフレームワークというバイアスがかかってしまう可能性がきわめて高い。
事実、書籍内でのインタビューでは、申し訳ないが、よく言えばいまどきの若者的、悪くいえばバカっぽいしゃべり方のインタビュイーばかりであった。
(例えば、「ただのイケメンはいなかった。イケメンなのに運動できないやつはいなかった」なる語りがあるが、これはインタビュー対象者が強い後光効果を受けているか、あるいはそもそも運動できない人達という層を的確に認識してこなかった可能性があることが読み取れる。)
他のレビュアーさん達は、この書籍に出てくる「教員の持っている『カースト観』」に批判的であるように見える。
しかし、この3人の教員が果たして研究対象として適切なのかという問題を一度無視するならば、これらの教師への批判的見解は、本書籍の価値を下げるものではないことを指摘しておきたい(もっとも、私も感情的にはこの教員らに憤りを覚えたのではあるが)。
問題は、この種の教員達の行動や発言を著者が「研究者として」分析・解釈していないことである。

以下のことは本書内では言及されていないが、教員もまたスクールカーストを生み出す重要な変数であることが示唆されるのである。
教員は教室内に出来上がったカーストを所与のものとして扱い、上位のグループをある種ひいきにする。そうしたことが、教室内のカーストに正統性を付与してしまう可能性がある。
教員達は効率的に学級を運営していこうとしているだけであるかもしれないが、結果的には教室内でのカーストの再生産に手を貸しているということになる。
教員達は、既に出来上がったカーストに乗っかって学級運営を行っているつもりなのかもしれないが、実際にこのようなことが起きている可能性も考えるならば、自分の行為に無自覚であるがゆえによりタチの悪い存在が教員達であるのかもしれない。
私は本書を読んでいて、上のようなことが起きているのではないかという危惧を抱いた。

研究者は、対象を研究するに留まるのが普通である。価値を提供するのは、実務家・実践家の仕事である。
しかし、教育学・教育社会学という研究領域は、政策提言的な側面が求められる分野でもあるから、著者には分析・解釈を深く・緻密に行ったうえで、「スクールカースト」という社会問題をどのように解決していくのがよいのかを提示できるような学者になってほしい。
そう考え、敢えて批判的なレビューを行いました。

でも、教師たちが、スクールカーストを序列秩序とは思わず「個人の能力差」としてあっさり認めてしまうあたりは何とも言えない説得力を感じた。著者も指摘する通り、じつは「いじめ」現象が周りの大人に見えにくい原因を示す仮説的な指摘かも知れない


残念な点から述べると、他の方の指摘の通り、相当に読みづらいということがまず挙げられるでしょう。インタビューのテープ(ICレコーダー)起こしそのままの会話文が、地の文による解説に続く、という形で延々と進みますが、全て繰り返しなので、ページ数は半分くらいにはなりそうです。会話文は、あまり「品のない」日本語が多いので、読むのが気持ち的に辛い、という面もあります。教師のインタビューについては、他の方も指摘していますが、相当に残念な教師の言葉が掲載されていて、これも読むのが辛いです。生々しいという点ではよいのですが。


サンプル数が少ないという指摘は、インタビュー部分にだけ当てはまるものです。大学生10名、教師4名なので、確かに少ないですが、このようなインタビュー調査は一人ひとり行うしか無いものですから、どのみち数百人規模で行うのは難しいでしょう。中学生へのアンケートは2874名ですのでかなりの規模です。できれば、大学生と教師についても、上記のインタビューから仮設を立てて、同様の規模のアンケート調査を行うとよいのでしょう。現在進行中なのかもしれません。



異性からの評価がカーストの上下を決める上で重要だという指摘があったので、アンケート調査を男子校、女子校、共学に分けて行うと、この問題をもう少し掘り下げられるのではないでしょうか。


鴻上尚史著の「空気」と「世間」 (講談社現代新書)を参考にすると、スクールカーストは、学校という閉鎖空間に発生した「空気」支配、すなわち流動化した「世間」による支配、と言えそうに思います。『「空気」と「世間」』の冒頭に出てくる、若手お笑い芸人が、一流の司会者(さんま、タモリなど)の支配する「空気」を読んで振る舞うという例は、このスクールカーストで、上位の生徒の支配する「空気」を下位の生徒が読むという姿とよく重なるように思います。

『「空気」と「世間」』のいう「世間」の5つの性質(贈与・互酬、共通の時間意識、長幼の序、差別的で排他的、神秘性)のうち、贈与・互酬の関係、は明らかに学校生活では出てきませんから、安定した「世間」が生まれず、流動化してしまって、得体の知れない「空気」による支配になる、と言えそうです。上位の生徒が、下位グループに「やる気を出せ」と言ったり、同調するのを強要するのは、「共通の時間意識」を押し付けている、と言えるかもしれません。

この見方がもし正しいならば、「世間」が消滅して、「個人」と「社会」を生きている欧米では、スクールカーストは無いか、あっても日本のそれとはかなり異なったものである、と予想されますが、果たしてどうでしょうか。もし、欧米に日本式のスクールカーストが無いのであれば、日本のスクールカーストで窒息しそうな生徒たちには、いっそ外国での教育、あるいはインターナショナルスクールへの転校、などの対処法を考えることが出来ます。国際比較研究が展開しやすいような研究法を確立することが望ましいと思います。
またもし、スクールカースト発生の原因が、日本人が自動的に醸成する「世間」と「空気」にあるとすると、スクールカーストの根本解決は欧米的な「個人」と「社会」の導入しかないかもしれません。あるいは山本七平のいうように「水を差す」ことで「空気」支配を寸断する。しかしこれは下位グループに属する生徒にするとあまりにも危険が大きいかもしれません。

学校という閉鎖空間が一次元の上下関係を作るのが問題なので、たとえば武道や音楽など校外の習い事で、校内とは別の評価軸を自分の中に作っていく、というのも、上下関係を相対化して無力化するのに役立つかもしれません。

もうひとつ、指摘したいのは、本書に出てくる教師はスクールカースト上位グループの生徒の「生き方上手」ぶりを賞賛していますが、果たして30代、40代になったときに、彼らが一体どのような職業でどのような活躍をしているのか、それを明らかにするべきではないかということです。つまりこの教師たちが考えている通り、上位グループの子供が社会的に成功を掴み、下位グループはそれが難しいのか、それとも実社会出るとまた違った話になるのか、ということです。自分の知る範囲では確かに上手くやっていそうな気はしますが、本当のところはどうなのか。また、高校のクラスの空気を支配するのと、企業で責任をもって部下を率いるのとはかなり違うようにも思えます。本当に上位グループの生徒はリーダー、上司や起業家に向いているのでしょうか。



学校における生徒間の階層性とその構造についてまとめている。著者が実施したインタビューデータを中心にしながらも、必要に応じて中学生へのアンケート結果で計量的に補足する形をとっている。本書のもとになったのは著者の修士論文で、それを加筆修正したものだという。

スクールカーストという用語でまとめている生徒グループ間の序列・階層性は、多くの人が多かれ少なかれ学校生活で経験した事柄であろう。
一方で、それを正面から研究した事例は少なく、日本における学校文化の様相の把握、あるいは「いじめ」との関わりなどからも本研究の意義は小さくない。

評価の低いレビューもあるが、元になったのが修士論文であることや一般向けに学術的な議論を省いてあることからすれば、やや手厳しいように感じた。インフォーマントの数が少ないという指摘についても、スクールカーストにおけるグループ間の力学や教師との関わりで言えば、理論的飽和とまではいかないまでも、リアリティをもって典型例を提示できていると感じた。研究の蓄積の少ない分野において、まずは十分な収穫ではなかろうか。

生徒間の序列に関しては、アメリカにおけるジョック・ナードは有名であるし、イギリスで言えばウィリス『ハマータウンの野郎ども』で生徒グループ間の権力関係が描かれている。おそらくは、日本だけの状況ではないのだろう。学級というものがない海外の学校においても階層性が見出されるという点は興味深い。
アメリカの事例はEckert "Jocks and Burnouts: Social Categories and identity in the high school"(1989)のようなまとまった研究があり、グループによって言葉づかいをはじめとする文化の違いが指摘されていた。
今後の研究が充実していき海外との比較ができるようになるのが楽しみである。


中学・高校での立ち位置が、今後の人生に大きな影響を及ぼすことは確かだが、残念ながら今、ヒエラルキーの下のほうに位置する子には、「学校だけが世界のすべてではない。変に他人に迎合して息づまるような学校生活を送るなら、ディスられても、顰蹙を買われてもいいから、自分を信じて自分が望むことに集中した方がいいよ」と言ってあげたい。念のために言っておくが、当然それは公序良俗やコンプライアンスの順守が前提ではあるが。


言葉としても新しい「スクールカースト」なるものを社会学的に研究した本です。
何人か誤解しているレビュワーの方がいますが、本書の根幹をなすのは生徒2874名に対して実施された質問紙調査です。一体何がスクールカーストを決めるのか。
それは容姿なのか、部活動なのか、学力なのか。説得力のあるデータで示してくれます。
インタビューの数は確かに多くはありませんが、
十分に質問紙調査を補強できていますし、何よりも生々しい。
ただ、この本をきちんと読もうとする人は、
インタビューだけを読むのではなくて、表やグラフもきちんと読んだ方が
何倍も残酷な現実にびっくりすると思いますよ


あと気になったのは、学力という要素が無視されていることです。
学校生活に於いて、成績は最も重要なファクターであり、人間関係にも大きな影響を与えているはずです。生徒間の学力差の大きい公立中学でのスクールカーストと、一定以上の学力の生徒が集まる高校でのそれとを、「中高」とひとくくりにして語るのは大雑把すぎると思います。(私立中と公立中でも差がありそうです。インタビュイーは中高一貫卒だったりで、その辺もなんだか恣意的な印象。)
成績が良い子がカースト上位でありそうな進学校と、ヤンキー系やギャル系が上位でありそうな学校とを、同列に語るのにも無理があるように思うのですが。



★★★
引用終わります。

最後に赤字で引用させて頂きましたが、本の中で「学力は関係ない」とあったのは意外でした。
学力は大事なファクターだと思います。

私はほどほどの進学校(都立高)に通っていましたが、スクールカーストは当時からありました。

1)勉強が出来て、容姿に恵まれて、異性に人気がある子。

2)(容姿がそこまででなくても)勉強が出来る子。

2)同率2位。(勉強ができなくても)容姿に恵まれ、異性の注目を浴びる子。

_____ここまでカースト上位_____
3)運動が出来る子。
____カースト中位______

4)普通の子たち。

4はカースト下位、とはみなされていませんでした。普通、という扱い。

学力は大事なファクターだと思います。
また学校間(偏差値など)による調査も絶対に必要ですね。偏差値って生々しいけど、重要なファクターだと思います。

それからもう一つ気になるのが「スクールカーストのその後」
人生は長いです。高校卒業して10年後、20年後、30年後、40年後、どうなっているか。
こちらも面白いところです。

【2014/10/17 15:28】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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