「大学入学者選抜制度改革と社会の変容」

この論文見つけて良かった。すごく役に立ちそう。
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【2015/04/30 18:13】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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4月は36分でした。

【2015/04/30 18:00】 | Yoga
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「胎動する教育意識」

18頁
「超学歴競争」
さらに付け加えた能力を求める
早期教育を求める

【2015/04/30 17:36】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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偶然見つけた雑誌です。

興味深いと思ったところをそのまま引用させて頂きます。


・この格差は拡大傾向にあり、その拡大は、階層の上の子の点数がよくなっているからではなく、階層の下の子の点数が大きくさがっているからなのである。つまり、日本の子どもの学力低下は下の層で起こっているのである。 筆者が、このデータに対して大きな危機感を感じるのは、まずこれが15歳児を対象にしているということ、そして、調査の内容がそれほ
ど高度なものではなく、つまり、塾、学習塾、家庭教師などをつけなければいけないような内容のものではないということである。つまり、本データが示すのは、公教育において「底抜け」の状況がおこっているということなのである。

・つまり貧困層の子ども、低階層の子どもは、親も含めて、勉強して有名大学に入り、有名な会社に就職するというようなライフ・スタイル自体に価値観を感じなくなってきている、というものです。実際に教育社会学の研究において、低所得層の子どもであればあるほど勉強時間が少なくなる、また高い成績をとろうという意欲が少なくなっているという結果も報告されている。

・しかし、そのような傾向が、本当に学歴主義の弛緩によるものか、つまり、子どもに教育投資をしないのか、それともできないのかということについて、きちんと確認されたデータはない。筆者が行った小規模の調査では、12歳以下の子どもがいる世帯を対象に、「おたくではどこまでお子さんに教育を受けさせたいですか」と聞いている。これによると、子どもを高等教育に行かせない、という人は僅かであり、経済的な理由で行かせられないとする割合がはるかに多かった。このデータから示唆されることの一つは、必ずしも教育投資をしないというように親が選択しているわけではないのではないかということである。
 
・国際比較で見ると、日本の子どもの貧困に対する公的支出は他の先進諸国に比べて大幅に低い。日本の子どもの貧困率が、再分配後(税、社会保険、給付前)は再分配前(市場所得)に比べて、増加しており、このように政府による介入によって子どもの貧困率が悪化する国はOECD諸国の中でも日本だけであることは、大きな話題となっている(阿部2008)。これは、子どもがある世帯に対する現金給付(生活保護、児童手当、児童扶養手当など)が、それら世帯に課せられている負担(税金、社会保険料)に比べてあまりにも小さく、そして、それが貧困、または、貧困線すれすれの世帯においても変わらないからである。教育に特化しても、同様である。

・緊急対策を早急に取り組まなければいけない。それから中期対策、それから長期対策と、タイム・フレームを考えた戦略を練っていく必要がある。そうでないと、「ではすべての政策をやりましょう」という話になる。「全部やりましょう」というのは、「全部やらないでおきましょう」というのとほとんど同じことになる可能性がある。政策のめり張り、そして、戦略的な政策決定が求められる。

・これらを回避するためには、義務教育、そして、できれば就学前の時点において、積極的に家庭の不利を解消する視点を教育にもたせることである。学力の底上げが必要なのである。すでに、一部の学校においては、放課後学習教室などを設けて学力が遅れている子に補習をする機会を与えているが、このような取組が広がることを期待する。そして、欧米で特に有効とされている就学前教育プログラムを日本においても検討することが望まれる。そのためには、特に、貧困世帯が集中している保育所を、そのひとつの「場」とすることが考えられよう。
<引用終わりです>


★★
児童手当って、調べてみたら、所得制限 960万円で、一人一万円くらい、みたいです。

知り合いの女性なんですが、とても興味深い方がいます。
お子さんは、「絶対に英語を堪能にして、将来は最低慶應へ」といつもおっしゃっています。
「最低慶應」というのは、つまり「望みは、東大(この女性曰く、東大が東大と言えるのは文Ⅰか理Ⅲだけでしょうね、とのこと。)まあもしくは国立医学部、もしくは慶應医学部、でもできれば、望み的にはハーバードに行ってほしい、世界最高峰ですから・・・。」とのことです。

私が、うっかり「イエールは・・・」などと言ってしまったので、さあ大変(笑)
「イエール?なんですか、私、聞いたことありません・・・」とおっしゃったので「いえ、アメリカの名門大学ですよ。専攻によってはハーバードより強いところもあります。」と申し上げたところ、「はぁ・・・まあ、うちはハーバードと決めていますから、他の大学は良くわかりません・・・」とのこでした。あんなにアメリカあめりか、と叫んでいるのに、イエールを知らないことに少々驚きました(笑)。

ちなみにお子さんは男の子でまだ4歳です(笑)

お子さんは、1年400万もするインタースクールに行っています。英語を話す動画を見せて頂いたのですが、とても上手でした。発音がやはり綺麗。
英検は現在5級を取得ですが、女性曰く「5級では恥ずかしくて恥ずかしくて」とのこと。

先日1億円もするお家をキャッシュで建てました。

ちなみに、お子さんの学費も、お家も全部、この女性のご実家が出していらっしゃいます。

ちなみにこれらのことは、もちろん私が根ほり葉ほり聞き出したのでは断じてなく、この女性がぺらぺらと教えてくださったんです(笑)

そして、何が言いたいかと言うと、(話がそれすぎたわw)児童手当、というのはこうしたお家にも支給されているということです。
月々1万円なんて、この女性にとってはママ友とのランチ代や美容院代やママ友ランチに来ていくためのスーツ代にもならない金額でしょうし、そもそも振り込まれていることすら忘れられているかもしれません。

こうしたお家に児童手当って必要なんでしょうか。もっともっと必要な家庭があると思うんですが、これがいわゆる「バラマキ」ってやつなんですね。


皮肉たっぷりの↑記事でしたけど、でも私、自分に子どもがいたらこの女性のようになっていたかもしれないな~ってちょっと思います。私のブログに以前さんざん絡んできた人たちもこんな感じでしたが、よーく考えると、あんなに私がああした女性たちを嫌っていたのは「同族嫌悪」だったのかも。
面白いものだと思います。

【2015/04/30 14:58】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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教育心理学特論論文
The Role of Parental Control in Children’s Development in Western and East Asian Countries

Abstract
何十年ものあいだ、欧米の研究では、両親が子どもをコントロールすることは、子どもの精神的発達に悪影響を及ぼすと言われてきた。最近になって、両親が子どもをコントロールすることで起こる悪影響は、中国などのアジア文化の国々にも当てはまるということがわかってきた。ただし、文化的にアジア圏の子どもたちは、親のコントロールを受け入れる体制ができやすくはなっている。また、ある文脈においては、親のコントロールが西洋諸国ではより強い、ということがある。

Parental Control
コントロールの仕方には「精神的なもの」と「行動に関するもの」がある。
「行動に関するもの」は、約束事を決めたりすることを含み、必ずしもネガティブなものではないが、ここでは、「精神的なもの」と「行動に関するもの」を区別するというよりは、「支配的で」「圧力的である」コントロールに焦点を絞っている。

Universalist Perspectives
両親のコントロール(例えばどの友達と付き合えば良いなどということ)は、子どもの自治を育てることに悪影響を及ぼす。これは世界的に(文化に関係なく)言えることである。
また、親が「許可する」「却下する」という態度でいること(例えば、子どもが親の期待に応えないと、親が子供に対しての愛をみせなくなる、などということ)が、悪影響を及ぼすということも世界的な観点で言えることである。

Culture-specific perspectives
アジア圏での「親のコントロール」はネガティブなものとして子どもに受け入れられないということはある。なぜならアジア圏の文化では、親のコントロールが親の愛情とみなされることがあるからである。

Empirical Evidence
子どもたちの自治を育てようとサポートすることは、欧米、アジア国でともに良い影響を与えたが、子どもの動機づけに関する影響に関して言うと、アメリカでの影響のほうがより強い。

Moderating Context
・アメリカでは中国よりも思春期において、コントロールを弱める傾向にあり、また子どもたちもそれを期待している。そうすると子どもたちの精神もよりよく機能する。
・勉強面においては、アメリカよりアジア圏のほうが、子どもたちは親のコントロールを受ける態勢がある。それは、努力して勉強し続けるということがモラル上受け入れられているということと、教育を受けることが収入に影響があるということに由来する。
アメリカの子どもの場合は、むしろ親が勉強に口を出すと、子どもは勉強に身が入らなくなる。アジア圏の子どもは勉強に関して親のコントロールを受けやすい態勢にあるが、ただし、それは親との関係が良好な場合に言えることである。
・文化の違いはやはり大きな影響を及ぼしている可能性がある。欧米では、より独立心を大事にする傾向がある。親が同じようにコントロールしたとしても、アメリカの子どもはそれを横暴だと取り、アジア圏の子どもはそれを愛情だと取るかもしれない。

Underlying Mechanism
・欧米と、アジア圏の両親のコントロールの影響について明らかにしようとする場合、状況だけでなく、メカニズムを知ることが大事である。
・同じような影響でも、異なった過程を踏むことが考えられる。欧米では、子どもの自治心を損なわれる時、親のコントロールはネガティブに働く。アジア圏では、自分が拒否されたと思うときに、親のコントロールはネガティブに働く。
・両親のコントロールはアジア圏では、欧米に比べてネガティブに働かないのではないか。アジア圏では愛情とみなされるからである。これは親がどのようにコントロール権を使うということに関係があるのではないだろうか。

Conclusion
・親のコントロールが子どもの思春期になっても弱まらない場合、親のコントロールは欧米においてよりネガティブに働く。
・勉強に関しても同じように言える。
・もっと深く研究する際には、アジア圏より欧米の子どもに対してのほうが、親のコントロールがより強く働くかどうか、というよりは、「いつ」「なぜ」そうなるのかという調査に移る必要がある。
・自己決定に関する論文では、自治心を十分に発揮するための普遍的な必要性は、環境をコントロールすることによって損なわれるという結果も出ている。
・両親が子どもの生活に過度に首を突っ込むことに制限をする、ということを進言することは、欧米でもアジア圏でもおそらく有効であろう。

【2015/04/29 19:46】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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・プラトン『国家』生まれつき金の人、銀の人、銅や鉄の人がいる。
教育が才能に勝る事はない。
(→これ、金や銀や銅っていう「価値の差」がついてまわるから問題なんだよね。
赤い石、青い石、黄色い石、白い石の人がいます、ならいいんだけどね。そういう社会ならいいということ。)

・遺伝子の差がもしなかったら、努力すれば必ず一流大学へ誰もが行け、「格差」のない社会になっていたはずだが、現実はそうではない。

・以下の×は誤った考え方 
×遺伝とは親の持っているものがそのまま伝わることだ。
×遺伝があるのだから、勉強・努力・教育などしてもムダである。
×その人の行動は遺伝が決める。
○人間の行動や心にも遺伝子が「かかわっている」
○遺伝をふまえて環境を理解し、設計しよう。

・個人差の多くの部分が非共有環境から成り立っている。
環境は多義的である。隣に座っている人を見てみよう。ほとんどすべての瞬間に違うことをし、同じものでも違った使い方をしている。同じ上司や仲間とも違った関わり方をしている。
このようにして行動の連鎖が異なれば、経験の中身も違ってくる。一卵性双生児であっても、経験から違ったことを引き出すためである。

・フュームのギロチン  「事実命題から価値命題を引き出してはならない。」「である(事実)から、すべし(当為)に移行することはできない。」187頁
平等なんてない!ということがあきらかになったからといって「じゃあそれでいきましょう」というわけにはいかない。

・196頁  西欧でも日本でも、近代以前は家柄で社会的地位が決まるのが普通だった。それでは、どれだけ能力があっても、一生境遇は変わらないことになる。そこで、それを打ち破るために考え出された思想が、人間はその能力と達成した業績に応じて報酬や社会的地位が与えられるべきだというメリトクラシー(能力主義)。
この考え方のもとには、万人の生まれついて持つ能力は本来平等であり、そのもとで機会が均等に与えられる限り、自由競争は正統化されるという考え方があった。この思想を信じる限り、社会的に有利な人はその有利さを何も恥じることなく教授できる。社会的に恵まれていない人に優越感を持つことすら許されるかもしれない。また、社会的に恵まれていない人も、心がけや社会的条件を改善することによって、その気になればいつでも上昇できるかもしれないという希望を持ち続けることができる。しかし潜在的能力には遺伝的な差異があること、しかもそれが決して無視できる小さいものではなさそうだということを行動遺伝学は残念ながら示してしまった。

・ジョン・ロールズ『正義論』互恵性の形「遺伝的に優れた人は遺伝的に恵まれない人を助けなさい」→しかし、そんなきれいごとが実現できるのであろうか。→成り立つのである。
→進化生物学者トリヴァース「互恵性利他性が、進化の過程で社会的動物が獲得してきた適応的方略であることを証明した。」利他的にふるまわないと生き延びることができない。
(例・働きアリが自分は子どもを持たず女王のために働くのも、その方が遺伝子を残す確率を高めるためである。)

・青年期の知能の個人差
社会階層が高いと遺伝の影響が大きいが、社会階層が低いと逆に共有環境の影響が大きい。
社会階層が低いほど、親の育て方や家庭の状況の違いが直接、知的能力を大きく左右する。

・教育制度、学校制度は、膨大に蓄積された文化的知識を人間が大人になるまでに学習するために作り上げられた驚くべき発明であるが、現状のままでは、主として、一般知能の遺伝的個人差を顕在化させ、様々な不平等を生みだす強力な装置として機能してしまっている。

・223頁 私たちを生かしているこの社会を構成する知識の総体を、私たちの持つ遺伝的多様性の総体が、一人ひとりにあらわれた遺伝的条件の利己性を満たしながら学習し、全体として互恵的利他性を発揮しあい、次々に起こる社会的問題の解決のためにその都度使い、社会全体としてのバランスを取る工夫をし続けていく必要がある。

・収入の遺伝子への影響は2~4割

・経済学 「時間選好」
今日一万円もらうのと、10日後に2万円もらうのではどちらが良い?などと言った質問に対する答え方をみるもの。
少ない見返りでも辛抱して待てる人は、浪費行動が少なくなり、計画的な経済行動ができる。
収入に代表される経済的なことがらも遺伝の影響を受けている。

【2015/04/29 15:58】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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行動遺伝学の本で紹介されていた映画なんですが、ものすごく面白かったです。
昨日の晩、飲み過ぎて気持ち悪いながらもしっかり見終えました(苦笑)

今晩、もう一度見たいと思います!

【2015/04/29 12:15】 | 日記
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NoTitle
eri
きょうかさん、 昨日、サツマイモのオレンジジュース煮を作りました。 サツマイモの甘さとオレンジジュースの酸味がちょうど良い具合に出ていて、くせになる味でした。ご紹介ありがとうございました。 

ガタカ、は何年か前にケーブルで見ましたけれど、今もそうですが、英語のドラマ、映画はリスニングがどれくらいできるかばかりに気を取られて、作品をどの程度味わっているのかがわかりません。 
きょうかさんのように、俳優の演技についての感想も言えるようになることが目標です。



eriさん
-
コメントありがとうございます(^^
私もサツマイモが余っていたので、先日また作りました。
オレンジジュースをケチらずに(笑)たっぷり使ってゆっくり煮詰めるとより美味しいようですね。eriさんも簡単レシピがお好きで嬉しいです(笑)簡単なお料理っていいですよね~

いや、私も英語のリスニングは気が張りますよ~
私が色々細かいところまで感想を述べているのは、おそらく気に入った作品は繰り返ししつこく見ているからだと思います。
ガタカ(これってダコタ、なのかダカラ、なのか時々わからなくなります笑)もおそらくあと4回ほど見ると思います(笑)
演技の感想は単語帳の方に書き散らしているあれでしょうか?
あれをご読みになっていらしたとはお恥ずかしいです(>_<)好き勝手書き散らしていますので(恥)でも、色々感想を書いておくと、単語が印象に残りやすいんですよね。

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昨日、ゼミの終わりに先生から誘って頂き、皆で近所の居酒屋に飲みにいきました。
すごく楽しかったのですが、中ジョッキビール3杯(は私としては普通の量だと思ったのですが笑)で帰宅してから、頭が猛然と痛くなり、気持ちも悪くなるという、非常に大変な思いをしました(笑)

次からは中ジョッキ二杯までにしたいと思います(笑笑)

今、ようやく復活したので、家事と勉強を頑張らねばと思います。
今日はゴールデンウィーク一日目なんですね。

【2015/04/29 12:08】 | 日記
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昨日は、ネイルサロンでリラックスしてきました。その後、カフェで少し勉強。
もっと頑張らないといけないんだけど、気持ちばっかり焦ってしまいあまりできていないなあ。

【2015/04/27 14:40】 | 短い爪でもネイルアートは楽しいです。
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今使っている記録のシールはこれ。






【2015/04/27 13:10】 | 予定や記録や目標など
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安藤寿康『遺伝マインド』参考。

共有環境(家庭)の影響は、統計的にはほとんど検出不能。性格は子育てではなく、家庭以外の非共有環境で決まる。非共有環境とは、学校などでの友だち関係のことだとされている。

なので、親や家庭をいくら調べてもそのひとのことはなにもわからない。

遺伝(氏)は性格に大きく影響する。
でも、遺伝がすべてを決定するというわけではない。









【2015/04/25 12:09】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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教育心理学特論論文
4月23日から

【2015/04/24 21:03】 | リーディング
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<クィア理論とポスト構造主義>
・ゲイというカテゴリーは「われわれ」という閉鎖された共同体を作り上げ、(ゲイではない)異質な人間を排除する共同体を作りあげてしまった。

・アリストテレスの形而上学(イデアよりも、目の前にあるものの共通点を集めて整理し、知識として体系化する)→ その背後にある真理を追究する学問
形而上学は、真の世界を言葉によって言いあらわすことができる。

・クィア理論は反形而上学
(伝統的な女性のアイデンティティ概念は、確立した女性の概念が存在する、とした。)
ニーチェの論を利用「形而上学は真理を追究したが、実は、客観的な真理など存在しない。解釈だけが存在するのだ。」
フーコーの権力理論「権力は、外から圧制してくるのではなく、主体が社会的規範を内面化していることである。」今までのアイデンティティ―理論はこうしたフーコーが指摘した現象が起こっているとした。

・性のタームで自己同一性を測ることから脱出せねばならない。

・しかし、こうした考え方もまた、形而上学から抜け出していない。なぜならあるセクシュアリティーという価値概念があり、そこからの解放を求めるものだからである。

・バトラー 「ジェンダーがセックスを作った。肉体的な差、生物的差は文化的な考え方によって構築されたにすぎない。」
主体は存在しない。あくまで外面的な行為がセクシュアルアイデンティティーを成り立たせているにすぎない。アイデンティティーなど存在しない。繰り返しの行為遂行の結果、あるように見えるにすぎない。

【2015/04/24 20:52】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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比較教育学特論

19世紀初頭までのアメリカ合衆国大学史

Ⅰ植民地カレッジの時代
・中世大学のカリキュラム 12世紀のルネサンスを継承した。古典語が圧倒的優位。
・自然哲学 神がこの天地を創造した、という考え方
・宗教改革によるキリスト教の分裂

Ⅱ17世紀~18世紀における合衆国の大学カリキュラム
例)ハーバード 1642年
朝8時から午後4時まで  月曜日から土曜日まで
ギリシャ語、ヘブライ語(聖書を読むことが重要だった)、討論、植物学、など。
ヨーロッパ、植民地時代の継承
・共和国の成立による大学カリキュラムの構造変化、非古典語を導入すべきだという動きがあった。

→以降、現代語(非古典語)と科学諸科目を導入することへの要求が続く。

<イエール報告> →現代にも通じる問題を含む
大学で何を学ぶのか?(しかも古典語といったもの)
それが何の役にたつのか?

・イエール報告の背景―三学四科の変化 商業が盛んになってくるに従い「古典語などいらない」という動きになる
・知識を蓄えるだけではなく、そのプロセスにおいて精神の陶冶をはかる。

<イエール報告に対するこれまでの解釈>
・時代の流れに逆らい既存のカレッジを保守するための文書
・時代の流れに合わせて既存のカレッジの存在意義を改めて問うもの
・財政戦略的側面「精神の陶冶」により、それまでカレッジに関わりのない商業・工業階級の子弟にもカレッジ教育を勧める

<ガイガーのイエール報告の中での解釈>
・学び方を教えること、がカレッジの役割と解釈
「どのように」学ぶかが大事、とイエール報告が述べていると解釈
・古典語をやることこそが、精神の陶冶である、とされていた。
なじみのない古典語をやることこそで、頭が鍛えられるとした。(今の心理学では否定されている。そのような転化は起こらない) グラマーを正確に学習する、ということは正確に暗記することを意味する。ゆえに、それにより頭が鍛えられるとした。


<ガイガーへの反論>
・イエール報告は「学び方」のみの議論ではない。
・イエール報告では「知識の教授」も含んでいる
・「精神の陶冶」には「知識の獲得」も含んでいる。学び方、だけではない。

→イエール報告は全国に伝わり、「まさに望んでいたもの」とみなされた。



【2015/04/23 20:58】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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教育学

構成主義 (ピアジェ・子どもの主体性は、人間の発達の本質である。子ども自身が学ぶ、経験して考えさせる)(子ども主体)
彼ら自身が理解を組み立てていく。シェマに取り込まれていく。
→メタ認知を修正していく

行動主義(教師主体)
ソーンダイク (ルソーのエミールは批判する立場。生徒が学ぶ環境を設計するのは教師の仕事である。)

自己調整のモデル
1. 成功体験や他者からの説得
2. 自分の認知・感情などを客観的にみる。「自分はこの文書を理解できているか?」「自分はストレスがたまっているか?」→それによって対応策を考える
3. この状況は自分にとって脅威か否か
この状況に対処するためにはどうしたらよいかを考える、という二重評価理論

→自己調整学習
その場の状況に合わせて認知や行動をモニタリング


促進焦 目標を達成するためには何ができるか
予防焦点 失敗しないためには何ができるか

防衛的悲観主義 起こりうる結果をすべて考慮する
方略的楽観主義 過去の成績と一致した高い期待を持つ

<自分の思考と合致する方略を用いることが大切!>
自分と課題が合っている方略を用いなくてはならない
(ある課題ではこの方略・・・別の課題では別の方略・・・かもしれない)

達成目標
マスタリー目標 自分の能力を伸ばす、あるいは課題を達成する
パフォーマンス接近目標  他人よりも良い結果を出す
パフォーマンス回避目標  他人よりも悪い結果を出すことを避ける、他人にバカにされたくない!!

接近か回避かは、遺伝の影響が40%から50パーセントある
適切な自己調整方略を促すためにはどうすればいいのか? ではなくて

適切な自己調整方略を促すためには「何を」知っているべきか 
どのように、では問いとしてはダメでは?
何を なら問いの立て方としてはいいだろうけど・・・

「どのように」ではなく「何であるか」という問いではないだろうか。

どうすべきか→現場の教師、政策
何であるか→学者、研究者

どのように、ということで攻めていくと答えは無限に出てきてしまい、究極的には個人による、となってしまうのではないだろうか

適切な自己調整方略を促すためにはどうすればよいのか、という問いを
→ 介入方法は何か   ならまだ良いのでは?

こういう条件であれば、こういう結果が出た、という事実検証を述べるべき

このような条件であれば、このようなATIが出る、と仮定を出すのはどうか。

教育学
そもそもこのリサーチクエスチョンは、成り立つのであるのだろうか。

○○べきだ、というのを自明にするのはどうなのか?

促すためにはどうすればいいか、ではなく「促す要因」とすれば「何であるか」となる。

母集団の問題
学習者全員の母集団 青年期に達している人 
どういうところを取れば、バイアスがかからないと思われるか

いろいろ考えられるだろうが、IQとSESがまずは大前提
SES家庭の社会経済的状況のこと。

【2015/04/23 20:56】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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教育心理学演習

『遺伝子の不都合な真実』

環境にはいろいろな多様性がある。「遺伝子」に向いたところにマッチングさせてあげられるように模索することが大切。

×遺伝子差異が大きく現れるのは自由度の大きい社会であり、その中で各自が遺伝的個性を大きく伸ばせるということ。
→ 「自由度」が大きすぎると犯罪の増加に導かれたりする可能性もあるので「自由度が大きい」は言い過ぎ。

×遺伝の違いに応じた様々な環境を社会の中に用意することで、それぞれの生き方ができる → 遺伝子がどういう傾向を持っているかはあらかじめわかるものではないので、「用意」することはできない。

「教育」は常に不安定で答えが出ない
常に追いかけていくようなもの

認知能力や行動的、心理的特徴に遺伝子差異の存在を否定できない以上、それぞれの遺伝子的才能を見極め、それぞれの人生を保障する社会的制度を「模索する」ことが必要
(決定はできない、「模索」を続けるという意味)

★★
ミミズなど (自然環境に直接に対応)

ミーアキャットやチンパンジーなど
社会があり、そこから自然環境に対応

人間
見よう見真似、日常でのinteraction→自然環境に対応するように試みる(例・植物栽培、道具を作る)→文字、計算、宗教、教会などなどなど。文化(=生きるためのツール)→ツールに適応しないと生きていけなくなる→階層・階級・不平等、教育、学校→ どんどん不透明になっていく。どうして教育が必要か見えなくなる。もともとどうして教育が必要になったかわからなくなる。
昔は、もっと「透明性」があった。もっとシンプルであった。

【2015/04/23 20:50】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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比較教育学特論
<イエール報告>
http://www.ushiogi.com/allbegin10.pdf#search='%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A0%B1%E5%91%8A' より引用

近代大学への科学の定着
(社会から読む科学史 (講座科学史 / 伊東俊太郎, 村上陽一郎共編 ; 第2巻){1989}所収)

1868年のことである。アメリカ東部にあるイエール大学のシェフィールド科学校の運営委員会は、一つの文書を発表した。ちなみにこのイエールのシェフィールド科学校とは1861年に創設されたイエール大学の一学部に相当するものである。そこの運営委員会はその文書のなかで、この科学校の存在意義を主張して次のように論じた。
「かつては、すぐれたラテン語学者、ギリシア語学者だけが、教養ある人物とみなされる時代があった。しかし今日においては、このような人間は、たんなる一スペシャリストにすぎない。おそらく視野の狭いペダントといってもよかろう」。
現代のわれわれにとっては、この言葉の意味を捉えることは、それほど容易なことではない。この言葉のなかには、相当な皮肉と怒りが込められているだとしたら、多くの人々は意外に思うことであろう。この一文はその当時の人々には、かなり挑戦的なトーンをもって鳴り響いたはずである。どうしてそれほどまでに挑戦的な一文をシェフィールド科学校の運営委員会は書きしるしたのであろうか。
そのことを説明するためには、まずもって当時のアメリカでは、カレッジのあり方をめぐってどのような激しい論議が交わされていたのか、それを説明する必要があるだろう。そしてさらにこのイエールに付置されたシェフィールド科学校(ここでいう付置ということの意味はあとで触れる) とは、どのようないきさつのなかから登場したのか、これらの点を説明しておく必要があるだろう。そこで話を1827年にさかのぼらせることとしよう。
この年、イエール大学の理事N・ダーリングはその理事会の席上、爆弾的とでも表現すべき発言を行った。つまり彼は「すでに死んでしまった言語」の教育など大学のカリキュラムから削り、もっと必要な教科を取り入れ、その教育内容を現代化する必要があると主
張しだした。ここでダーリングが「死んでしまった言語」と表現したものが、ラテン語、ギリシア語であることはいうまでもない。事実、当時のイエールのカリキュラムで最大のウエイトを占めていたのは、このラテン語、ギリシア語という「すでに死んでしまった言語」の教育であった。しかしこれは何もイエールに限ったことではなく、その当時のアメリカの大学はどこでもそうだった。どこの大学も前世紀からの遺物とでもいうべきカリキュラムにしがみつき、それを変えようとする意欲にさえ欠けていた。
ところが大学の外側では、大きな時代のうねりが姿を現しはじめていた。1817年、ニューヨーク州知事デイビッド・クリントンはオーバニーとバッファローという二大都市を結ぶエリー運河建設のため、州がその費用を負担するという決定を下した。その当時アメリカ最大の運河といえば、その長さ30マイルにしかならなかったが、このエリー運河は全長364マイルに及ぶ画期的な運河であった。多くの人々はこのクリントンの企画を皮肉り、「クリントンの大溝」とひやかしたが、1825年、運河の完成をみたときには、嘲笑は尊敬に変わっていた。このエリー運河の建設が完了すると、物資の流通は盛んとなり、それに伴って、商工業活動は一段と活発化し、人々に多くの利益と希望をもたらした。エリー運河は新しい時代のシンボルとなり、その完成のなかに人々は新しい時代の到来を読みとろうとした。
コネチカット州の議員でもあったダーリングにとっても、エリー運河の出現は新しい時代の到来を告げるシンボルと映った。それではその彼にとって当時のイエール大学はどう映ったのであろうか。ラテン語、ギリシア語というおよそアメリカの実生活には関係のないことを、一〇年一日のごとく教えているだけではないか。キャンパスの外では大きな時代の変化が起ころうとしているのに、カレッジはいっこうに変わってはいない。若者もこの時代遅れのカレッジに背を向け、この頃ではカレッジで学ぼうとする若者は減る一方ではないか。そのためカレッジの財政はますます悪化をたどり、やたらに寄付金集めに狂奔しているだけではないか。いったいイエールはこのままでよいのか。かくしてダーリングはイエールの理事会でカリキュラムの見直しを提案した。
こうしたダーリングの発言がきっかけとなって、イエールの理事会はひとまずカリキュラム再検討のための委員会を発足させることとなった。この委員会のメンバーとして指名されたのは、学長のJ・デイと古典語教授のl・N・キングスレイと科学の教授のB・シリマンの三名であった。この三名が後に『イエール報告』(Yale Report)として著名な報告書を作成することとなる。それではいったい彼らはいかなる結論を下したのであろうか。
その前に若干説明しておくならば、当時アメリカのカレッジはどこでも、そのカリキュラムといえばほとんどラテン語とギリシア語の学習で埋めつくされていた。学生生活といえば、四年間ほとんどラテン語とギリシア語の学習の連続であった。しかもその教え方は「復誦」といわれるきわめて機械的で、単調な教え方だった。この復誦の連続であった。しかもその教え方は「復諦」といわれるきわめて機械的で、単調な教え方をとっていた。この復誦の実態については、いま触れる余裕はないが、多くの学生はこの復誦の授業を呪った。そしてこの復議の連続である学生生活を呪った。
それではいったいどうしてラテン語、ギリシア語がそれほどまでにカリキュラムのなかで幅をきかせていたのであろうか。この点をおおよそ説明しておくならばこうなる。もともとアメリカのカレッジは植民地の牧師を養成する学校として登場した。アメリカのカレッジはその起源をたずねていくと、その多くは牧師の養成学校にたどりつく。ラテン語、ギリシア語を中心とするカリキュラムとは、この牧師養成学校時代からの伝統であった。だからそれははじめのうちは、それなりの意味をもっていた。牧師にはラテン語、ギリシャ語の学習が欠かせない。しかし時代が変わり、多くの学生が必ずしも牧師になるためにカレッジにくるわけではない。牧師だけが彼らの目標ではない。そういう傾向が目立ってくるにつれて、この「古典カリキュラム」に対する批判は高まりはじめた。
それではどうしていつまでも古典語優位のカリキュラムは変わらなかったのであろうか。それにはいくつかの理由がある。まず第一に注目する必要があるのは、その当時、カレッジの教師といえば、その大部分がラテン語かギリシア語の教師であった、という事実である。つまり彼らがカレッジに勤め、わずかばかりの俸給を手にすることができたのは、つまるところ、そのカリキュラムのなかにラテン語、ギリシア語を教える時間が確保されていたからである。カリキュラムのなかに書きこまれたラテン語、ギリシア語の時間こそ、彼らの生存を保障する最後のとりでであった。とっくの昔に通用しなくなった言語を飯の種に変えてくれたものは、ほかならぬ、こうした伝統的カリキュラムであった。
その彼らが自分からラテン語、ギリシア語の時間を削ってもよいと、言いだすはずがなかった。いつの時代にあってもそうだが、教師というものは自分の教える教科が一番優れたものだと思いたがる職業的本性をもっている。しかもどの教科の教師もすべてが、そう思い込んでいるから、カリキュラムなど容易なことではいじれない。どこかの教科が出っ張れば、かならずどこかが引こむ。どの教科にどれだけの時間を配当するかは、その教科を担当する教師の面子にかかわる問題であるばかりでなく、彼らの生存権、ふところ具合いにかかわる深刻な問題であった。
ただあまりに露骨に職業意識をむきだしにするのは、それはそれで面子にかかわるので、さまざまな理屈や主張が動員されることになる。だからカリキュラム論とはしばしばそうした理屈の総集編のような様相を呈することになる。
それではいったい「古典カリキュラム」を正統づける理屈として、どのようなものがあったのであろうか。それはおおまかにいって二つほどあった。第一はラテン、ギリシアの古典のなかには、長い歴史に耐えた人類の貴重な知恵が豊富に詰まっているという論理である。これは現代流にいえば「教育における不易なもの」という正統化のパターンである。いずれの文明もその文明なりに「古典」と定義された一群の文化財をもっている。だからどのような文明においても、このようにして定義され、「正統化された古典」を伝達するための学校が成立する。そしてそのような学校が成立すると、今度はそれが原因となって、特定の知識内容が「教育されるべき知識」として正統性を獲得することになる。「古典カリ
キュラム」もまたこうしたメカニズムを通じて正統化されたものだった。
もう一つ当時のアメリカで「古典カリキュラム」の正統性を根拠づけるために活用された論理として、「能力心理学」(Faculty Psychology)をあげる必要がある。これは要するに一種の独特な「学習転移説」である。つまりラテン語、ギリシア語の学習で培われた能力は、単にラテン語、ギリシア語の学習にとどまらず、他のすべての教科の学習に転移すると説く理論である。それならば、なにもラテン語、ギリシア語に限らず、どんな内容の学習でもよいのではないか、という反論が成り立ちそうなのだが、あくまでもラテン語、ギリシア語の学習の場合だけに「学習転移」が起こると説く点に、その独自性があった。
この他さまざまな理屈づけの仕方があったが、それをいちいち説明することは、ここでは避けたい。われわれにとって必要なことは、カレッジ側はさまざまな理屈を動員して、「古典カリキュラム」の正統性を主張しようとしたが、学生はそれにあきあきし、世間はこうしたカレッジのあり方に深い疑惑の目を向けはじめていた、という事実である。またラテン語、ギリシア語の時間がぎっしり並ぶカリキュラムのなかに、自然科学も近代語も、その他のちに社会科学と呼ばれることになる教科も、入り込む余地がなかった、という事実である。ダーリングはこうしたカレッジのあり方に対して、一石を投じた。彼の発言はキャンパスの外に渦巻いていた世論の一つの現れであった。いったいイエールはこうしたダーリングの発言に対して、どう答えたのであろうか。
1828年彼らが提出した報告書は、一言にしていえば、徹底した伝統的カリキュラムの擁護論であった。そこに盛り込まれていたのは、ギリシア語、ラテン語教育を中核とする古典的カリキムラムの正統性の再確認であった。たとえば報告はいう。
「古典は、青年の知性の最初の開花から最高の成熟にいたるまで、あらゆる段階の才能を鍛練する素材を提供している。精神のあらゆる能力が開花されるのは、この古典の学習を通じてである。記憶力、判断力、推理力をはじめ、趣味や創造力までが、そこにおいて動かされ向上することになる。」「古典による鍛練は、専門の科目を学ぶための最上の準備となる」。
このイエール・リポートに対する後世の教育史家達の評価はきわめて巌しい。彼らの多くはこのイエール・リポートこそ、アメリカの大学の近代化を阻害した元凶だとして非難している。これこそ時代の流れにさからった保守主義の立場を雄弁に物語る歴史的ドキュメントとして位置づけている。
事実、このイエール・リポートは当時のアメリカでは大きな役割を演じた。ちょうどその当時古典カリキュラムに対する批判は、大学の内外に次第に高まりはじめていた。カリキュラムの見直し論議が始まっていたのは、なにもイエールに限られたことではなかった。アメリカ各地のカレッジで同様な論議が高まっていた。カリキュラムの近代化を求める声は、さまざまな形で登場し、古典カリキュラムの正統性を脅かしはじめていた。つまりどこのカレッジでも今後どちらの方向に向かって進んだらよいものか、決めかねていた。
そうした雰囲気の中にこのイエール・リポートが出現することによって、古典カリキュラムは一つの強力な「お墨つき」を手に入れることに成功した。イエール・リポートは古典的カリキュラムの正統性を再確認することによって、多くのアメリカのカレッジを「古典カリキュラムのためのサンクチュアリ」に仕上げる役割を演じた。
それは当時のアメリカ社会でのイエールの立場とも関連している。その当時のイエールはプリンストンと並んで「カレッジの母親」と表現されるほど、数多くの大学教師を供給していた。現に1840年当時、75のカレッジのうち36校まではイエールの卒業生を学長に頂いていた。この1828年のイエール・リポートはこれらイエールの卒業生を通じて、アメリカ各地に散在する大小さまざまなカレッジに影響を及ぼした。1849年に出されたベロイト・カレッジのカタログには、本校のカリキュラムは「イエール・プランに正確に基づいたもの」と明記されていた。またこのイエール・プランはアメリカ東部をはるか離れたカリフォルニアにまで、その威力を発揮した。1860年にもなってのことだが、カリフォルニア・カレッジが一年生にフランス語、二年生にスペイン語を必修とするカリキュラムを組もうとしたとき、シャーマン・デイ(イエール大学長デイの息子)は反対の声をあげ、これらの近代語を選択科目に格下げしてしまった。1860年代のカリフォルニアがゴールドラッシュ、石油ラッシュにわいていたことは、あらためて述べるまでもない。またそこの住民の多くがフランス語系、スペイン語系の住民であったことも、あえて断るまでもない。西部の開発にラテン、ギリシア語がどんな関係があるのか、首をかしげる人は多かった。
だから後世の歴史家ルドルフはこういっている。「カリフォルニアの土地が古典語を再興する格好の土地とでもいうのであろうか。サンディエゴのどこか近くにピューリタンが上陸したとでもいうのであろうか」

★★★
古典語を学ぶこと
1)精神の陶冶
2)知識を学ぶことが大切   どちら?

「精神の陶冶」は、知識の教授が含まれる。よって1と2は矛盾するものではない。
「精神の陶冶」は、「優れた教育の基礎を築くための知識の教授」をも含む

【2015/04/22 21:02】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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教育心理学特論 論文
Prosocial Spending and Happiness: Using Money to Benefit Others Pays Off

(注・prosocial について
向社会的行動とは、反社会的行動・非社会的行動の反対で、他人を助ける ことや他人に対して積極的な態度を示す行動のこと。向社会的行動の定義は、「他者の身体的・心理的幸福を配慮し、ある程度の出費を覚悟して、 自由意志から他者に恩恵を与える為に行う行動」とされている。寄付・奉仕、分与・共有、援助、労働援助、社会的弱者への援助、親切行動等を挙げることができる。)

・人にお金を使う人は幸せを得られるという報告がある。
・お金を使う金額より、「人の為に使う」というその行為そのものが大事である。
・これは豊かな国だけでなく、貧しい国でも同様に見られる現象である。
・小さい子どもに対する実験でもこの現象は見られた。(子どものfacial expressions for happiness によって判断)
・人にお金を使う、という行動は人間の3つの必要性Relatedness/ Competence/ autonomy) を充足するからである。

Relatedness
自分にだけお金を使うよりも、例えば、スタバに一緒に行って同じ時間を共有することにお金を使うなどの活動のほうがより幸せを与える。
ただの知り合いよりも、親しい関係の人にお金を使うほうがより満足感が得られる。親しい人に対してはneed to belong がより満たされるからであろう。

Competence
お金を使うこと(=寄付)にはっきりした達成感が見られる時に人はより、幸せを感じる。(例・10ドルあれば、子どもにベッドを買ってあげることができます、のように明確に金額と達成できる項目を挙げるなど)

Autonomy
(強制されるのではなく)自分で寄付するかどうかの選択権を選ぶ状態の時、人はより幸せを感じる。

・人のためにお金を使う、という行動は単に精神的な幸せだけでなく、肉体的な健康もより改善させる。

<今後の研究テーマなど>
・ただお金を使う、寄付などといったものからもっと発展して社会的なインパクトのあるもの、例えば税金などではどうだろうか。普通税金を払ってハッピーになる人はあまりいないだろうと思われるのだが。

・個人差はどうだろうか。他人のためにお金を使うことで、より幸せになる人、そうでもない人。


<疑問点その1>
45頁
Prosocial spending might promote happiness by endowing givers with a feeling of power or by enabling them to witness others’ gratitude.
→自分が親切にしたことで、「その人が感謝してくれるかどうか」は大きい点では?

本文中には「税金を納めることで、幸せ度が増すかどうか」の記載があったけれど、税金ってどんな風に使われているかほとんどわからないしなあ~

子どもがいないと結構税金収めているけれど、掲示板なんか見ると「子育てはお金がかかる、もっともっと独身および、子どものいない世帯から税金を取れ!」なんていう書きこみを良くみるもんな~そんな失礼な「乞食」にお金あげても全然「幸せ」なんかに感じないわ(笑)

<その2>
happier mood (42頁)の基準が知りたい!
produce activation in reward areas of brain (45頁)とはどのように計測しているのか?

【2015/04/22 15:17】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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テスト

【2015/04/22 15:08】 | 携帯から
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ゆでたパスタは余ったら冷凍しておくのですが、それを使ったサラダ。

冷凍パスタをチンして冷ます。
ボウルにレタスを敷いて、その上にパスタとゆで卵を細かく切ったのを載せて終わり(^^

【2015/04/20 20:25】 | 超簡単クッキング!
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★★スキル/コンピテンシーについて★★
☆「コンピテンシー型教養教育の問題と再構築の指針―高等教育の質保証をふまえて―」
公開研究会 平成25 年10 月15 日  より引用。

・大学教育において、学生が学問領域の区別なく身に付けるべき汎用的な能力(ジェネリック・スキル)の育成が叫ばれるようになった。そのような汎用(はんよう)的な能力は、高等教育における学習成果として経済産業省が提唱する「社会人基礎力」や、文部科学省が提唱する「学士力」等にも多く含まれる概念となっている。

・特にアカデミックライティング、情報リテラシー、キャリアデザイン等、初年次教育が育成の対象とするところにおいて顕著。
(注・キャリアデザインとは<法政大のキャリアデザイン学部のHPより抜粋>
「生涯同じ会社に勤め続ける、あるいは結婚して退職し、専業主婦になるといった、少し前まで〈標準〉的であった生き方が、必ずしも誰もがたどる生き方ではなくなりつつあります。また終身雇用制がくずれ、派遣社員・契約社員・パートタイム・アルバイトなど、雇用形態も多様化し、経済情勢の変動が直接個人の暮らしを脅かすことも少なくなりません。生き方・働き方をめぐる大きな変動の中で、キャリアに関わる多様な選択肢を前に個々人の判断が求められる場面が増えています。そのような時代だからこそ、一人ひとりが、暮らし方、学び方、働き方をめぐる社会のしくみみや変化をしっかりと理解し、自立/自律的に自ら学び、考え、行動できる力―まさにキャリアデザインの力を身につけていくことが求められているのです。」

・スキル/コンピテンシーを考える際、「プロト・ディスプリナリー」な視点を忘れてはいけない。プロト・ディシプリナリーな教育は、「何を教えるのか」とともに「なぜ、それ
を教えるのか」という教育の根源を問うことにつながる。例えば、蝶の研究をしている生物学の同僚がいるとする。蝶の生態について、教員も学生も深く学んでいるわけだが、「なぜ、蝶の生態について教えるのか」、「なぜ、蝶の生態について学ぶのか」というこのような、学習の根源を問うことが、プロト・ディシプリナリーを問うことにつながっていく。
コンピテンシーを重視する実践的な教養教育について考える際、このプロト・ディスプリナリーの視点を忘れてはならない。

☆科学的グローバル教育モデルとしてのコンピテンシー育成 (中央大学)より引用
http://www.ise.chuo-u.ac.jp/ISE/outline/Gmajor/competency/competency.pdf#search='%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E6%95%99%E8%82%B2+%E5%A4%A7%E5%AD%A6'
コンピテンシーとは
・「コミュニケーション能力」他人の意見あるいは記述された文章を正しく理解したうえで、それに対する自分の意見を明確に表現する。効果的な説明方法や手段を用いて、関係者を納得させる。
・「知識獲得力」継続的に深く広く情報収集に努め、取捨選択した上で、知識やノウハウを習得し、関連付けて活用する。
・「組織的行動能力」チーム、組織の目標を達成するために何をすべきか、複数の視点から多面的、客観的に捉え、適切な判断を下し、当事者意識をもって行動する。その際、他者とお互いの考えを尊重し、信頼関係を築いてそれを維持しつつ行動する。
・その他「創造力」など。

☆教養とは
・新しい教養教育の視座--21世紀の教養教育とは 中鉢 惠一
経営論集 (58), 93-104, 2003-03  より引用
「教養」ということばは、日常生活のさまざまな場面でさまざまな意味で使われているが、大学教育の場面では、多くの場合「専門教育」に対応する存在として「教養教育」が語られている。日本の大学教育における「教養」を語る場合には、戦前の旧制高校で行われていたヨーロッパ型のリベラルアーツと戦後の大学で行われてきたアメリカ型のジェネラル・エデュケーションとを区別しなければならない。
・ヨーロッパ型のリベラルアーツ
「古典語、哲学、歴史を重視し、書き方や話し方、立居振舞といった日常作法、ノブレス・オブリージュ(地位の高さに伴う義務感)の躾など」を中心としたもの
・アメリカ型のジェネラル・エデュケーション
「自由な民主社会の推進力となる善良なる市民の養成にある」ということを目標とし、人文・社会・自然の3分野に外国語と保健体育を柱としたカリキュラムのもとで行われた教育のことである。
・日本は一部エリートを中心としたヨーロッパ型の貴族的な社会から、一般大衆が「市民として社会貢献する」というアメリカ型の社会に変化していった。
 

★★政治的教養★★
☆文部科学省HPより引用
・民主主義を実現するためには、国民の政治的教養と政治道徳の向上が必要。
・学校教育における政治教育には限界があり、特定の党派的政治教育を禁止することにより、教育の政治的中立を確保する。

☆以下のサイトより引用
http://kuseiken.web.fc2.com/resume/10akikyouiku.pdf#search='%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%9A%84%E6%95%99%E9%A4%8A'
・教育基本法14 条
第一項
「良識ある公民たるに必要な政治的教養は教育上これを尊重しなければならない」
・政治的教養
a)制度についての知識:政治体制、選挙制度、地方自治などの仕組み
b)論理的思考:問題に対して批判的、論理的に分析できる能力
c)政治道徳・政治信念:民主主義の意義、他者の尊重etc…
・積極的な政治参加の促進
・全体主義への没落を防ぐ
・自分の意見の確立


★★ 専門と教養の対立★★
新しい教養教育の視座--21世紀の教養教育とは 中鉢 惠一
経営論集 (58), 93-104, 2003-03  より引用
(1) 設置基準大綱(たい こう)化(1991)以前
1951年に発表された大学基準協会の『大学における一般教育』は、一部改定が行われたもののその後40年間にわたり日本の大学の一般教養教育を担ってきた。しかし、大学を卒業したものが、一般教育に関してあまりよい印象を持っていないのも事実であろう。問題点として、まず第一に指摘されるのは、一部の小規模の大学を除いて、一般教養教育の多くが200~400人単位の大教室で行われていたことである。教員はマイクを使い、一方通行の授業を提供するのが精一杯であり、試験やレポートを1枚1枚丹念に見ることはできず、学生に十分なフィードバックができない状態が続いた。
このような状況が続けば、学生は当然一般教養科目を卒業のために必要な単位としか見なくなり、1980年代にいたって「パンキョウ」などという教養科目を軽視する言葉さえ生まれてしまった。第二の問題点は、教養対専門という対立が起こってしまったことである。国立大学の多くで教養部が創設され、1・2年で教養、3・4年で専門という住み分けが進み、専門科目教員と教養科目教員の間に溝ができてしまった。私立大学においても、たとえ教養部が置かれていなくとも、現実にはやはり教養対専門という対立が起きてしまった。教養と専門は、本来車の両輪となるべきものであるが、専門教員からは、一般教養科目はもっと専門に役立つ内容を扱うべきであるという指摘がされ、一方、教養担当教員は大学の学部では広く基本的な知識を身につけるべきであるという指摘がなされていた。ここでの大きな問題は、双方が同じテーブルにつき教養教育をどうすべきであるのかについて、真剣に討議をしなかったことである。第三の問題は、高度経済成長に伴う実学指向の
高まりにより、教養教育そのものに対する社会的な評価が十分に得られなくなったことである。学生は社会に出てすぐ役に立つということに目を向け、長い目で見ると役に立つかもしれない学問への興味を失ってしまったとも言えよう。

(2) 設置基準大綱化(1991)以降
 多くの大学で教養部が廃止され、教養教育と専門教育の垣根がなくなったことは、カリキュラムの自由化が進み、学生、教員の双方にとって利益をもたらしたように思われる。実際、教養教育に積極的に取り組み、教養部に代わる全学センターを設立し、各学部の代表者が集まり全学の教養教育に関わるという方式を取る大学が国立・私立を問わず増えている。そこでは、大綱化以前の硬直化したカリキュラムを改善する努力が見られる。大きな特徴としては、従来の人文、社会、自然という枠組みを外し、学生が自由に自分の興味に応じてカリキュラムを組み立てられるようになった
 設置基準の大綱化は、このように一見すると大学にとってプラスに働いたように思われるが、一方で教養教育の軽視という側面を照らし出している。それは、端的に教養教育の単位数削減という形で現れている。特に、英語を除く外国語は廃止されたり、自由選択となり、教員のリストラの問題まで引き起こしている。また、旧来の3分野の廃止にともない全体の教養科目数が削減され、マイナーな学問領域が廃止されるという問題も起こっている。さらに、3分野の境界がなくなったことにより、学生は自分の興味の範囲内でのみ選択する傾向にあることから、特定の分野に偏ることが多くなったことも問題視されている。たとえば、文科系の学部・学科に所属する学生は、自然科学や数学などの科目を避ける傾向にあり、社会・経済・経営など数学を必要とする学部では問題も起きている。(中略)
大学生と大学卒業者の教養の低下が進んでいるのではないかとの危惧(きぐ)の声がある。

<疑問点>
コンピテンシー・スキル/教養/専門、の関係は?
スキル重視で教養、専門ともに価値の置き方が低くなっている?

【2015/04/20 12:53】 | 読んだ本・論文の備忘録・学んだこと
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4月19日から 22日まで。教育心理学特論 論文 とそのまとめ。...

【2015/04/19 13:51】 | リーディング
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近所の図書館へ散歩がてら行くのは楽しいです。いい運動という感じ。

八重桜が綺麗でした。
最初の2枚はピンボケだったけど載せます(笑)










【2015/04/18 12:05】 | 日記
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茄子が余ったので今晩はこれを作ります!ものすごく簡単(笑)

1)茄子とオクラを適当に切って、ごま油で炒める。ひき肉も後からいれて炒める。ごま油だと香りが良いです!
2)しょうがを少し入れる。
3)めんつゆを入れて煮詰める。
4)ネギの切ったのを上からぱらぱら。

終わりです(笑)

【2015/04/18 11:54】 | 超簡単クッキング!
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